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2017年9月22日 (金)

NO441、豊島区椎名町付近(トキワ荘・自由学園明日館)の見廻り

9月20日(水曜)、天気予報では晴れ間もちらほらとの予報であったが、雨が降りそうな曇り日で、暑くもなく見廻り日和かと納得する中、椎名町付近から西池袋を見廻りした。

椎名町とは、昭和14年~昭和41年(1939~1966)までの間、現在の南長崎一・六丁目と目白四・五丁目に椎名町という町名が付けられていたが、帝銀事件の舞台としての名称を嫌われたために、町名としては残っていない。ただし、今でも商店街が存在するため、椎名町駅の周辺は便宜的に椎名町と呼ばれている。

1930年代には芸術家の集まるアトリエ村を形成し、ひいては「池袋モンパルナス」と呼ばれるようにもなり、著名な画家や詩人が若き日々を過ごした街としても知られるようになったそうな。マンガの原点・マンガの聖地と云われる「トキワ荘」物語は著明である。
*記念碑「トキワ荘のヒーローたち」漫画家たちの似顔絵とサインが刻まれている。P1080243
トキワ荘は、東京都豊島区南長崎三丁目に1952年から1982年にかけて存在した木造アパート。手塚治虫ら著名な漫画家が居住していたことで有名。現在は当時の跡形は何もない。
*「トキワ荘跡地モニュメント」若き漫画家たちが集まったマンガの聖地。P1080244
*当時の跡形はなく、日本加除出版社新館に変っている。P1080245
手塚治虫が「漫画少年」編集部の誘いで住み始めたことから、漫画家を志す若者たちが全国から集まり、寝食を共にした。
まとめ役は、寺田ヒロオだった。寺田を中心に「新漫画党」という新人漫画家のグループが結成された。
*トキワ荘2階居住者見取図P10802472
*トキワ荘通り「お休み処」の2階の展示スペース、トキワ荘の兄貴分・寺田ヒロオの部屋を再現した展示。P1080250
彼らが入居した当時は、漫画を書くことが「不良行為」と見なされる時代だったので、同じ志をもつ仲間と思う存分、漫画に打ち込める素晴らしい環境であった。トキワ荘は実力ある若手漫画家が集まり、のちに「漫画家の梁山泊」と呼ばれるまでになった。

トキワ荘の主な入居者:手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子不二雄(安孫子素雄、藤本弘)、鈴木伸一、石森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、よこたとくお等々。
*椎名町駅近くの真言宗寺院・金剛院には「マンガ地蔵」がある。P1080256

自由学園明日館 大正10年(1921)羽仁吉一・もと子夫妻によって創立された自由学園の校舎。近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトと、その高弟、遠藤 新による設計。校舎としての役目を終えた後、「明日館」と命名され、卒業生の諸活動の場所として使用。平成9年(1997)国の重要文化財に指定された。
*自由学園明日館正面P1080277
帝国ホテル設計のため来日したライトの助手の遠藤は、友人でもある羽仁夫妻をライトに引きあわせた。夫妻の教育理念に共鳴したライトは「簡素な外形のなかに思いを充たしたい」という夫妻の希望を基調とし、自由学園を設計した。
*喫茶室ホールの窓P1080272
木造で漆喰塗の建物は、中央棟を中心に、左右に伸びた東西の教室棟をシンメトリーに配しており、ライトの第一期黄金時代の作風にみられる、高さを抑えた、地を這うような佇まいを特徴としている。プレイリースタイル(草原様式)と呼ばれるそれは、彼の出身地・ウィスコンシンの大草原から着想を得たもの。道路を隔てた南西には、遠藤新設計の講堂がならび、重要文化財・自由学園明日館は構成されている。
*自由学園明日館・遠藤新設計の講堂内部P1080276
*フランク・ロイド・ライト
フランク・ロイド・ライト(1867年~1959年)は、アメリカの建築家。アメリカ大陸で多くの建築作品があり、日本にもいくつか作品を残している。プレイリースタイル( Prairie Style)の作品で知られる。浮世絵の収集でも知られ、日本文化から少なからぬ影響を受けていることが指摘されている。日本国内に現存する作品では、帝国ホテル、山邑邸(芦屋市、国の重要文化財)自由学園明日館(共同設計:遠藤新)等。

2017年8月28日 (月)

NO440、江戸五色不動尊の見廻り

8月27日(日曜)、残暑が厳しい日が続いているがまだ多少はましと思えるこの日、久しぶりの江戸の結界パワーに触れるべく、五色不動尊の見廻りに出かけた。
「お不動さん」と親しまれる不動明王は、本来インドの神であり、大日如来の命をうけて悪を懲らしめる使者である。そのため外面的には剣を持ち怒りに燃えた形相をしているが、内面的には慈悲の心で民衆を救う神と信じられて、庶民に親しまれている。
黒・青・赤・黄・白の五色は宇宙の全ての現象は「地・水・火・風・空」の五つからなるとする宇宙観を色彩で現したものとされる。江戸五色不動は、三代将軍家光が幕府統治指南役天海僧正の具申をうけ、江戸市中の名のある不動尊を五色不動尊に指定したことが起源と伝えられているそうな。

この日の概略行程:
我孫子出発⇒北千住⇒日比谷線三ノ輪→①永久寺→樋口一葉公園→三ノ輪⇒日比谷線上野⇒駒込⇒南北線本駒込→②南谷寺⇒駒込⇒大塚⇒都電学習院下→③金乗院→雑司ヶ谷鬼子母神(昼食)→副都心線鬼子母神⇒渋谷東急田園都市線⇒三軒茶屋→④数学院⇒渋谷⇒目黒→⑤目黒不動⇒バス⇒JR五反田⇒品川⇒我孫子着
行動時間:7時間30分、 歩行数:約16,000歩

*天台宗永久寺不動堂
永久寺は江戸中期に獄吏として罪人を斬首した山野永久が怨霊供養したことに因み寺名が付けられた。

P1080135
・目黄不動尊像(鼠もすくむほどの形相をした不動尊で、鼠不動の俗称もあるそうな)P1080136
☆樋口一葉記念公園の「たけくらべ」記念碑P1080140
*天台宗南谷寺不動堂P1080144
・目赤不動尊像(元は「赤目不動」と呼ばれていたが将軍家光が「目赤不動」に改名するよう命じたそうな)P1080146
*真言宗慈眼寺金乗院不動堂
慈眼寺は真言宗の寺院、本尊は聖観世音菩薩。不動明王像は廃寺となった新長谷寺(将軍家光から目白不動の称号を贈られた)から昭和20年に遷座したもの。P1080158
・目白不動尊像(通常の不動明王と異なり、自ら切断した左腕から火焔を吹出す形相をし特別強い力があるとされるそうな)P1080159
☆雑司ヶ谷鬼子母神境内にあるイチョウの巨木(樹齢700年以上、天然記念物)P1080167
昼飯は鬼子母神の裏手にある「そば処 和邑 」。
日本酒の熱燗とせいろ一枚で大満足。

*天台宗最勝寺数学院不動堂
寛永寺の末寺の一つで、本尊は阿弥陀如来。不動明王像は廃寺となった麻布谷町勧行寺から明治15年に遷座したもの。P1080174
・目青不動尊像(天と地を結ぶ雲が青色であるため「縁結びのお不動様」と親しまれているそうな)P1080178
☆数学院の境内にあるチシャノキの巨木(珍木)…チシャとはレタスのことで若芽の香が似ていることから名が付いた。P1080180
*天台宗龍泉寺本堂
龍泉寺は大同3年(808)慈覚大師の開創、幕府のあつい保護を受け繁栄を極めた。富籤が盛んで「江戸の三富籤」と称された寺院。P1080186
・本堂内部に不動尊像は安置(残念ながら撮影禁止)(龍泉寺の御本尊は目黒不動明王 (秘佛) ~十二年に一度 酉年に御開帳)P1080194
・独鈷の瀧前の不動尊像。P1080192_2
・龍泉寺の大日如来像(露座の銅製仏像。膝前で印を結ぶ胎蔵界大日如来像で天和3年(1683)の作)P1080195
☆龍泉寺の境内にある鈴懸(プラタナス)の巨木P1080197
*江戸五色不動尊の目黄不動尊像は2体あり、永久寺のほか江戸川区平井1丁目にある天台宗最勝寺(本尊は釈迦如来像)の目黄不動尊がある。今回は見廻り時間の関係より見廻りを省略した。

2017年8月10日 (木)

NO439、再建天守閣の大多喜城址の見廻り

8月8日(火曜)、笠森寺観音堂の見廻りの後、大多喜城址を見廻りした。見廻りをしたと云っても、再建された天守は現在内部が博物館となっており、天守のある場所以外は城内と云えるような城郭の面影は全くない。街並みを散策しての見廻りをする時間もなかったので、中途半端で終了した見廻りであった。
*大多喜城復元天守P1080062
大多喜城の概要・歴史
大多喜城は、千葉県夷隅郡大多喜町にあった戦国時代から江戸時代かけての城であり、小田喜城(おだきじょう)とも呼ばれ、大多喜藩が置かれていた。
大永元年(1521)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされる。今日の大多喜城は徳川家康の重臣・本多忠勝が築城し大多喜藩10万石であった。忠勝は3層4階の天守を持つ改築を行い、城下町の建設を行った。これが今日の大多喜城である。この城は幕末まで重要な役割を果たしてきたが、明治3年に取り壊された。その後、昭和50年(1975)に城跡に天保6年(1835)の図面を基にして天守が再建された。
*大多喜城と城下町の模造図(画面をクリックして拡大)P1080072
本多忠勝・本多忠朝
本多忠勝は徳川家康の四天王の一人として戦国の世を、生涯無敗で生き抜いた勇猛果敢な忠義一徹の武将である。
本多忠朝は慶長14年御宿沖で座礁したスペイン船(サン・フランシスコ号)乗員317名の命を救い、日本、スペイン、メキシコの友好交流の基を作った温情あふれ人間性豊かな武将である。
この二人の親子のエピソードを、NHK大河ドラマとして実行委員会が誘致活動を行っている。
*大河ドラマ誘致用の幟旗P1080065nhk

*本多家の家紋(瓦に焼き付けられた紋章)P1080063

本多氏以降の主な城主:
 阿部正次、青山正俊、阿部正令、阿部正春、稲垣重富、松平氏
廃城年:明治4年(1871)
遺構:土塁、横堀跡、堀切、郭、井戸

大多喜城の正式名称は“千葉県立中央博物館大多喜城分館”という。千葉県指定史跡の上総大多喜城本丸跡に昭和50年に建てられた天守閣造(3層4階の鉄筋コンクリート造)の歴史博物館。房総の中世・近世の城郭とそれに関わる武器・武具や調度品・古文書及び武家社会や城下町の生活などに関する資料を展示している。
*大多喜城再現天守

P1080076j_2




2017年8月 9日 (水)

NO438、日本唯一の「四方懸造」、上総笠森寺観音堂の見廻り

葉月7日の立秋を迎えて、迷走を続ける台風5号が北陸を襲い日本海に抜けた8月8日(火曜)、まだまだ豪雨の被害が各地で出ているにも拘らず千葉県は夏空の茹だる暑さを迎えていた中で、以前にも見廻りをしたことがある笠森寺観音堂と大多喜城跡を見廻りした。

笠森寺は千葉県長南町笠森にある寺院で、天台宗別格大本山、山号は大悲山。坂東三十三箇所の第三十一番札所である。
延暦3年(784)伝教大師最澄が楠の霊木で十一面観世音菩薩を刻み山上に安置し、開基されたと伝えられ
ている。
古来より霊場として知られ、十一面観音像が本尊であることから「笠森観音」と通称される。
*笠森観音堂

P1080017
*見上げる観音堂P1080019
大岩の上にそびえる観音堂は、61本の柱で支えられた四方懸造(しほうかけづくり)と呼ばれる構造で、日本で唯一の特異な建築
様式であり重要文化財である。長元元年(1028年)の建立と伝えられるが焼失し、現在の建物は墨書銘から文禄年間(1595年頃)の再建とされている。
*懸造の61本の支柱P1080026
*巨樹のクスノキに支えられた観音堂の裏面の懸造P1080039
また、笠森寺周辺の森林は笠森寺草創当時より禁伐林として保護されてる残存林であり「笠森寺自然林」として国の天然記念物に指定されている。
*女人坂の石段P1080003
*三本杉、笠森寺自然林は植生が豊かなことと同時に、生息する野鳥の種類や個体数も多く「鳥獣保護区」
に指定されている。P1080007
*参道脇の子授楠・子授観音(クリックして拡大)P1080009
*仁王門、P1080041
*二天門、風神・雷神が表門を守っている。P1080048
*芭蕉句碑、笠森寺の二天門手前に三基の句碑が建立されている。中央の句碑が安永6年(1777)に建立された芭蕉句碑である。
『五月雨に 此笠森を さしもぐさ』 さしもぐさとはヨモギの異名であり、この世に生き
る人すべて、一切衆生のことを現す。P1080013
*諸国名所百景 『上総笠森寺岩作り観音』 浮世絵 二代目歌川広重 画
Yjimage5
*大多喜城跡の復元天守閣P1080062


2017年7月31日 (月)

NO437、信州上田、上田城跡公園の見廻り

7月28日(金曜)、妙高山・火打山見廻りの帰りに北陸新幹線上田駅で下車し、真田昌幸が築城した名城があった上田城跡公園を見廻りした。上田城は徳川軍の大軍を二度も退けた実戦経験を持っている。このやうな実戦で二度もの戦果をあげた難攻不落の近代城郭は、例をみない。現在は桜や新緑・紅葉などの四季の自然が美しい公園として整備され、市民の憩いの場となっているそうな。P1070952
上田合戦
☆第一次上田合戦:徳川・北条の和睦により、所領上州沼田を廻り真田昌幸が徳川家康にそむき、起ったのが第一次上田合戦。天
正13年(1585)、徳川勢は約7,000の大軍で攻め込む。守る真田勢はわずか騎馬200、雑兵1,500程度。しかし、地の利を生かし、「千鳥掛の柵」を設置する等で勝利する。これにより、真田の武名は一躍天下に鳴りひびいた。
☆第二次上田合戦:関ヶ原の合戦の前哨戦。石田三成側から西軍に味方するよう要請され、昌幸・信繁(幸村)は西軍に、信幸(
信之)は東軍につく。これが有名な「犬伏の別れ」。昌幸・信繁は上田城に篭城し、関ヶ原に向かう徳川秀忠軍38,000人をわずか3,000の兵で防ぐ。ゲリラ戦を繰り返したため、徳川軍は上田城を攻略できず、関ヶ原の合戦に遅れ大失態をおかした。

関ヶ原の合戦後上田城主は真田信之となり、以後、仙石氏(三代)・松平氏(七代)とかわり、廃城後は公園となり現在に至っている。

*上田藩主居館跡の表門
関ヶ原の合戦後、真田信之がここに居館を構えた。表門とその両脇に続く土塀、濠が今に残り、上田市の文化財に指
定されている。現・上田高等学校。P1070939
*二の丸橋P1070946
*南北の櫓と東虎口櫓門
城外に移築されていた櫓は昭和18年(1943)に現在の南櫓・北櫓として再移築された。平成6年(1994)には東虎口櫓門が復元
され、現在の姿となった。P1070951
*真田石で組まれた城壁
東虎口櫓門右手の石垣にある幅約3mの大石。真田信之が松代城移封にあたり父・真田昌幸の形見として持っていこうと
したが微動だにしなかったという言い伝えが残る。P1070953
*真田神社入口
歴代の上田城主(真田氏・仙石氏・松平氏)を御祭神として上田城本丸跡に鎮座する眞田神社。戦国時代を生き抜いた真田昌幸
・信之・信繁(幸村)の知恵や勝運ににあやかろうと人気のあるスポットである。P1070955
*真田神社拝殿P1070956
*西虎口の西櫓
西櫓は寛永5年(1628)に仙石氏によって建てられた江戸時代から現存している唯一の建物。P1070958
*鬼門除けの隅欠(すみおとし)
上田城本丸の北東(丑寅)の方角は鬼門にあたることから土塁の隅を切り込み「鬼門よけ」とした。P1070972
*城内にあるガン研究者山極勝三郎博士銅像
山極 勝三郎(やまぎわ かつさぶろう)、1863年(文久3年)~1930年(昭和5年)、日本の病理学者。人工癌研究のパイオニア
として知られる。信濃国上田藩士の三男として生まれ、医師山極吉哉の養子となり、1885年に東京帝大医学部に入学、首席で卒業。1892年ドイツに留学し、コッホ、フィルヒョウに師事。1895年に東京帝大医学部教授に就任。1915年には世界ではじめて化学物質による人工癌の発生に世界で初めて成功。山極は4度、ノーベル医学生理学賞候補にノミネートされている。P1070975
*本丸跡表示の石碑P1070985
*本丸跡地P1070990
*池波正太郎贔屓の蕎麦屋「刀屋」
池波正太郎「散歩のとき何か食べたくなって」から…『東京では口にすることのできぬ、本物の手打ちだ。…並みのもりそばで
も、東京の三倍はある。大盛りとなれば、とても私ひとりでは食べきれない。…「こたえられない……」のである。』P1070997
*熱燗と合う手打ざる蕎麦
女将さんが「とりあえず小をご注文ください」との注意!!小を注文、蕎麦は美味い。熱燗の肴は蕎麦だけでもOK。P1070998
*真田太平記館(館内撮影禁止)真田太平記は全12巻P1070999


2017年7月30日 (日)

NO436、日本百名山、(火打山)・妙高山の見廻り

7月27日は高谷池ヒュッテで朝食を済ませ、6時30分に妙高山を目指して出発した。百名山と深田久弥氏に選定された秀麗な山々の中でも登攀が厳しい山に入ると云われる妙高山であり、かつ昨日の疲労も重なっているので、覚悟しての早朝出発である。なお、高谷池ヒュッテの食事メニューは夕食はカレールーとハヤシルーの一点盛り、朝食は中華ルー一点盛りの単品であり、それぞれ不味くはない。

妙高山
妙高山(みょうこうさん)は、妙高戸隠連山国立公園に属し標高2,454mの成層火山である。日本百名山、北信五岳(黒姫山 -
戸隠山 - 斑尾山 - 飯綱山)の一つでその最高峰。馬蹄形カルデラの外輪山と、中央火口丘の溶岩ドームから構成される火山。越後富士の異名を持つ。近隣の火打山、焼山と共に頸城三山を形成する。
山麓には温泉が沸き、冬期スポーツエリアとしても知られる。山名は「越の中山」が「名香山」と当て字され、それが「みょうこうざん」と読まれ「妙高山」となったそうな。

妙高山(27日)の行程:高谷池ヒュッテ6:30→黒沢池ヒュッテ→大倉乗越→長助池分岐→妙高山北嶺10:50→妙高大神11:15→風穴→光善寺池→12:40天狗堂(昼食休憩)13:10→北地獄麻平分岐→血ノ池→2合目麻平→燕温泉岩戸屋16:20宿泊~温泉入浴と二人大宴会。

*高谷池ヒュッテからの朝一の火打山(妙高山は雲の中で確認できない)P1070881_2
*黒沢池ヒュッテP1070884
*ダケカンバの巨木P1070887
*サンカヨウ(果実は青紫色で食べられる、酸っぱい)P1070890
*イワシャジン(ホウオウシャジンと相違し萼片が反り返らない)P1070892
*長助池分岐から続く雪渓P1070893
*頂上直下の修験者洞窟P1070894
*妙高山北峰2,446mP10708982446m
*妙高山最高地点の妙高大神2,454mプレートP10709072454m
*下山道のクサリ場~風穴を下り天狗堂で昼食休憩P1070916
*長い急勾配の下山道を下り、ようやくの体で2合目麻平P1070921
*燕温泉口の登山道に下山し、岩戸屋で宿泊、温泉入浴大宴会P1070927
*27日は妙高山の雄姿が拝顔できなかったが、翌28日朝、関山付近の車中から遠望。P1070931


NO435、日本百名山、火打山・(妙高山)の見廻り

7月25日に出発して28日に帰宅するとの3泊4日の山旅計画で、深田久弥氏の「日本百名山」33番妙高山・34番火打山を見廻りした。同行は奈良在住の健脚者である友人K氏。今回も足手まといの迷惑かけ放題の山行であったが、何とか当初の計画通りに無事に楽しく見廻りが実行できたことに感謝とお礼を申し上げる。
26日(水曜)は火打山の見廻りである。

火打山(26日)の行程:妙高温泉香風館7:10⇒バス⇒笹ヶ峰登山口8:50→黒沢→十二曲り→富士見平→12:30高谷池ヒュッテ(昼食休憩)13:20→天狗の庭→雷鳥平→火打山15:20→高谷池ヒュッテ16:20宿泊

火打山
火打山(ひうちやま)は、妙高戸隠国立公園内にあり標高2,462mである。妙高山より標高が10m近く高い。日本百名山・花の百
名山に選定されている。7月のこの時期が最も高山植物の花盛りである。
山容が火打石に似ていることが、山名の由来である。
妙高山に比べ、ハクサンコザクラなどの高山植物が豊富で、高谷池付近には天狗の庭を始めとする池塘の湿原がある。山頂付近
はハイマツ帯で、雷鳥平付近はライチョウの生息地となっている。

*登山口の情景。天気予報は午前曇り・午後時々晴れ。越後地域はまだ梅雨が明けていない。P1070821
*ブナ林の中にキヌガサソウP1070830
*高谷池ヒュッテ周辺に咲くオオバミゾホウズキ(黄色花)P1070831
*高谷池ヒュッテと湿原P1070840
*天狗の庭にはハクサンコザクラの群生が見事であるP1070845
*同じくハクサンチドリP1070846
*同じくイワイチョウの群生P1070847
*天狗の庭周辺の池塘に映った逆さ火打山と本物の火打山P1070854
*木道の脇にはヨツバシオガマとヤマハハコP1070858
*雷鳥平先の山頂までの登山道にヒメシャジンの群生P1070861
*同じくテガタチドリP1070864
*同じくミヤマオダマキP1070865
*同じくミヤマキンポウゲの群生P1070871
*火打山(2,462m)の山頂、雲が流れて周囲の山脈景観は今一であったP10708732462m



2017年7月22日 (土)

NO434、市川大野(柏井町)の巨樹、子安神社のスダジイの見廻り

7月16日(日曜)、スダジイの巨樹が十数本生茂っていると云われる市川大野にある子安神社を見廻りした。
子安神社は、主に安産・子育ての神が祀られている神社である。御祭神は木花之開耶姫命(このはなさくやひめ)であり、古来よりから産土神「土神社」として多くの信仰を集めたそうな。

柏井子安神社の創建年代は不詳だが、元禄5年(1962)建立の庚申五層塔、元文5年(1740)の水舎、その他文政・天保・安政年間の灯篭、絵馬なども認められる神社である。庚神五層塔は市重要文化財である。P1070758
*本殿は拝殿の奥にあり、ここで直接お詣りができる。P1070761
*市川市指定重要有形文化財・庚申五層塔P1070762
*拝殿周辺はスダジイの巨木に覆われた鎮守の森であるP1070763
*参道沿いのスダジイの巨樹群に覆われた参道は、日中でも暗闇参道の佇まいである。P1070765
*神社参道入口のスダジイの巨樹P1070769


NO433、市川市行徳の巨樹(天然記念物)の見廻り

7月15日(土曜)、市川市の江戸川放水路以南の地で、江戸時代には行徳塩田が設置され、水上交通の要所でもあった行徳の巨樹を見廻りした。行徳街道には寺院が多く寺町通りの名があり、「行徳千軒寺百軒」ともいわれた歴史ある地域である。

☆神明(豊受)神社
行徳街道沿いに由緒ある神明(豊受)神社がある。御祭神は豊受大神。神明神社は金海法印という山伏により建立されたと伝えられる。金海法印は徳が高く行いが正しかったことから、多くの人々に行徳さまと崇められた。行徳と云う地名になった。
この神社はかっては14ヶ村の総鎮守で、現在3年ごとに行われる行徳五ヶ町祭りの大神輿はここから出発するそうな。P1070728
*神明(豊受)神社のイチョウは、江戸名所図会にも描かれている幹周6m程の巨樹である。P1070733
*2本のケヤキは、2007年の火災で幹が焼け痛ましいが、焼けていない側は今でもたくさんの葉を繁らせている。P10707302
*行徳町道路元標:道路元標というのは、大正8年(1919)に道路の起点や終点を示す指標として設置されたものである。P1070735
☆押切稲荷神社
神社の創建年代等は不詳だが、現本尊は350年程前に鎮座していたもの。御祭神は宇迦之御魂神。本殿には御尊体として約八百五十年前の鎌足義政の作と言われている十一面観世音菩薩が安置されていると云う。。
押切稲荷神社の千寿銀杏は、平成14年11月市川保存樹木に指定され 幹回り6,5m高さ30m、とされている。雌木で、毎年たくさんの銀杏がなる。P1070739
*押切稲荷神社の千寿銀杏P1070740
御祭神=宇迦之御魂命となっているが、現地由緒書によると御本尊は十一面観音菩薩となっている。神仏習合思想の名残と思われるが、稲荷寺院の御本尊は荼枳尼天(だきにてん)で、稲荷神社の御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたま)である。

☆浄土宗源心寺
西光山安楽院源心寺と称する。源心寺は、浄土宗芝増上寺の観智国師が開山となり、慶長16年(1611)創建した。P1070749
*六地蔵が当地では有名である。P1070748
*源心寺のイチョウ 剪定が激しくされ、本来のイチョウの美しい姿とはかけ離れた樹形である。P1070750


2017年7月12日 (水)

NO432、「花の宝庫」入笠山、八ヶ岳高原の植物の見廻り

7月9日(日曜)から10日にかけて、とある植物観察会の周年記念バス一泊旅行に誘われ、ホイホイと気楽に参加し、「花の宝庫」入笠山と八ヶ岳高原の植物観察がてら見廻りをした。入笠山の植物観察における目玉は、入笠湿原を埋め尽くす「100万本の日本すずらん」と実験園内で見られる絶滅危惧ⅠA類「釜無ホテイアツモリソウ」である。

当該の植物観察会は本年を以って15周年を迎えているが、その会員のレベルの高さ、会を運営する事務局幹事役員の豊富な知識と熱意、隔月に発行する中身の充実した会報など、なにをとっても感服する存在感のある団体である。sa-sanはお邪魔虫的存在ではあるが時々定例会に顔をだし、植物知識を充電している次第である。

行程:入笠山麓⇒富士見パノラマリゾート→ゴンドラ山麓駅⇒標高1,780m山頂駅→入笠湿原→山彦荘→御所平お花畑→山彦荘→入笠すずらん山野草公園→ゴンドラ山頂駅⇒山麓駅⇒八ヶ岳高原⇒樅の木荘…翌日10日…⇒八ヶ岳自然文化園→園内散策→高原散策⇒甲州街道の宿場「道の駅:蔦木宿」⇒帰路

入笠山(にゅうがさやま)は、長野県の中西部にある赤石山脈(南アルプス)北端の標高1,955 mの山。山頂からはほぼ360度の大展望が広がり、南・中央アルプス・八ヶ岳はもとより富士山や、遠くは北アルプスなども望める。周辺には大阿原湿原や入笠湿原などがあり、これらの湿原に自生する植物を楽しむこともできる。生憎この日は、周辺の山々は霞がかかり展望なし。

観察した植物の種類は、高原植物・湿原植物の花々、草木・樹木であり、説明を頂いた件数はメモに記載しただけでも70数種にのぼり、この場を借りて記載したら大変なことになるので、ほぼ割愛する。とは言え、ほとんどの種類をハッキリとは記憶できていない。悲しいかな加齢による脳の委縮であろうか、解り易い説明を右耳から左耳に高原の風と共に消え去るばかりである。

花の名前、樹木の名前が写真と確認できたもの、上手く写真に納まったもののみ掲載する。

*展望悪しの八ヶ岳連峰P1070632_2
*ベニバナイチヤクソウ  「紅花一薬草」と 書くように、傷や虫刺されに効く薬草。P1070638_2
*ネバリノギラン 和名の由来はノギランに似て花穂が粘ることから。P1070642_2
*クリンソウ 花は円状につき数段に重なる姿が仏閣の屋根にある「九輪」に似ていることから名前の由来となっている。P1070648_2
*日本すずらんの群生地P1070639_2
*サルオガセ「樹皮に付着して懸垂する糸状の地衣」。霧藻、蘿衣ともいう。P1070655_2
*ヤグルマソウP1070658_2
*釜無ホテイアツモリソウ  「絶滅の危険性が極めて高い区分にされて、幻の花と言われる。野生ランの王者」P1070672_2
*もう一枚P1070675_3
*センジュガンピ  (千手岩菲)ナデシコ科センノウ属の多年草。P1070676_2
*コウリンタンポポ  ヨーロッパ原産で、日本では帰化植物として定着している。 別名「エフデギク」。P1070679_2
*ヤナギランP1070680_2
*アサギマダラ  八ケ岳では初夏から夏半ばまでいつでも身近に見かける。 この小さな蝶は日本列島を縦断、さらに南の沖縄や台湾まで延べ2,200km以上を飛んでいく。 翌年春、その逆のコースで日本に渡ってくる。P1070685_2
*ノコギリソウ 葉形から鋸草、別名 ノコギリバナ(鋸花)、羽衣の故事からハゴロモソウ(羽衣草)とも称される。P1070693_2
*ナツニレノキの巨木P1070706_2
*ヒメウツギP1070712_2
☆釜無山(2,116m)は入笠山(1,995m)の隣りの山で釜無ホテイアツモリソウはその山麓で発見された希少価値の高い花であり、その生育が確認されたのは長野・山梨・福井の3県だけである。

☆「花の百名山」で知られる入笠山、と表記している文章があるが、田中澄江氏の花百名山の本には「新花の百名山」も含め入笠山は入っていない。「花の宝庫」と云うのが相応しいと思う。

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