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2017年2月16日 (木)

NO406、三浦海岸と三崎港マグロ食事処の見廻り

今年もグルメの仲間と彼方此方ウロウロと食べ歩き見廻りをすることとし、2月15日(水)三浦半島へ出かけた。三浦海岸までは我が街、我孫子からはJRと京急電車で2時間30分近くもかかる遠方であるが、この地の春はさすがに一足早く訪れ、この日は風もなく穏やかな海原と河津桜満開の春を満喫することが出来た。しかも美味マグロの食事付である。

*三浦海岸駅前公園の満開の河津桜
三浦海岸とは北の津久井浜から南の菊名浜に連なる三浦海岸海水浴場一体の砂浜を指す。投げ釣りのメッカ・映画やテレビのロケ地などで良く知られる場所である。
その昔、名産であった三浦大根による沢庵漬けのための大根干しが冬場の風物詩となっていたが、いまは殆んど見られない。P1060128
*京急電車沿線の河津桜並木と菜の花
三浦海岸駅から小松ヶ池公園にかけて約千本の河津桜が咲き誇る。夜は線路沿いの桜をライトアップしているそうな。P1060132
*海南神社
千年の昔から三浦を守る三浦半島総鎮守で、三浦一族の祈願所であり藤原資盈(すけみつ)を祀る神社。三浦義明は源頼朝挙兵をこの神社で占った。「神事狐合」(白と赤の狐を戦わせ占う)を行い、白狐が勝ったため源頼朝に加わった。鎌倉幕府を開いた頼朝が寄進したという大銀杏があり、三浦半島の総鎮守である。P1060147
*源頼朝寄進による大銀杏
境内には源頼朝が平氏打倒、源氏政権樹立とともに寄進したと伝わる樹齢800年の大銀杏(大公孫樹)がある。三浦市内で最も古く、幹周は4.6m、樹高は15m。
三浦一族の繁栄、源頼朝の三崎来遊、後北条氏による治世、江戸時代の水軍奉行、明治の城ヶ島軍事施設化など、この古木が800年の三崎を見てきたかと思うと、歴史の醍醐味を感じる。P1060139
*神社の拝殿(12個の鈴が12本の綱に括り付けられている)
海南神社は藤原資盈(すけみつ)を祀る。源氏の始祖・清和天皇(850-881)の御代、藤原資盈は皇位継承の争いにおいて伴大納言善男に味方しなかったことから讒訴され筑紫に流罪となり、その渡航中暴風に遭い864年一族とともに三崎に漂着した。
資盈はこの地の長となり、房総の海賊を平定して漁業、文化、福祉にも尽力し、住民の尊敬を集めたそうな。P1060142
*海南神社神橋の擬宝珠
三浦半島の最西南端に位置する三崎は古来から知られた風光明媚の地。平安以来、戦国時代に三浦義同が後北条氏に攻め滅ぼされるまで約450年もの間、三浦一族が治めた。その後、後北条氏が入り対岸の里見氏に対する備えとした。江戸時代には徳川の三崎御船奉行向井政綱が治め徳川水軍の拠点とした。境内にある神橋の擬宝珠は子の向井忠勝が寛永10年(1640)に奉納したものだそうな。P1060146
油壷の由来……三浦義同が北条早雲に攻め滅ぼされ、その落城の際に討死した三浦家主従の遺体によって港一面が血に染まり、油を流したような様になったことから、油壷と云う地名になったそうな。

*「にじいろさかな号」船底のガラス窓から海中の魚がのぞける。P1060152
*三崎港出航の船から見える対岸の千葉房総半島(右側)P1060155
油壷マリンパーク……現在は入場者数は減少し、設備は全体的に老朽化が目立つが、ファミリー向け施設として楽しめるそうな。

マグロ食事処……「みさきまぐろきっぷ」購入でマグロ食事券が付く。30店舗の食事処から限定マグロメニュー(意外とどの食事処も好評)。ちなみにsa-sanとその仲間は三崎港回転寿司「さん和」で、食事券メニューの本鮪中トロ3貫・本鮪赤身2貫・地魚5貫、魚のアラ入り味噌汁を頂いた。当然熱燗2合は別料金で注文。なお、「さん和」は回転する寿司ではなく、設備はあるが目の前での手握りの本格寿司やである。設備がある理由は不明。

「みさきまぐろきっぷ」は京急品川駅から3,060円で購入。購入駅からの往復乗車券・京急バスフリー乗車券・マグロ食事券・施設利用券orお土産券が付いている。また、「にじいろさかな号」乗船1,200円は施設利用券を使用した。

本日16日は・・・・・
建久元年(1190)2月16日、西行法師が七十三年の生涯を弘川寺で終えた日である。
  「願はくは 花のしたにて 春死なん 
          
そのきさらぎの 望月の頃」

2017年2月13日 (月)

NO405、雪に覆われた筑波山の見廻り

今年は、関東を除いて日本各地で大雪の弊害が続いている。関東と云えるかどうか微妙であるが、例年雪の少ない茨城県の水戸市では2月に入ってからも大雪に見舞われている。紫峰山と云われる筑波山からの便りも雪の情報であった。今年になってから筑波山神社参拝も出来ず仕舞いで気にかけていたが、ようやくに晴れの予報となり如月2月12日(日)筑波山の見廻りに出かけた。

筑波山女体峰は877mの低山であるが、雪中登山での強風も予想され、寒さに弱いsa-sanは冬山装備のいでたちと万全を期した。さりながら、筑波山はなんと優しく、風は全くなく、暖かな陽だまりに包まれていたのであったぞ。

*筑波山神社随身門に掲げられた「年越祭」
筑波山神社の年越祭は、もともと旧暦の1月14日に行っていた追儺式(豆まき)が元となっている。その年初めての十五夜の満々たる月の如く一陽来復・家内安全・身体安全・除災招福・厄除けなどを祈願する祭礼で、現在は2月10日・11日の二日間にわたり盛大に斎行されている。残念ながら一日遅れであった。P1060108_2
*女体山尾根道の雪に覆われた登山道
標高600m辺りからは陽だまり以外の登山道は完全に凍結し、雪に覆われていた。アイゼン着装である。P1060111
*快晴の中、女体山山頂から霞ヶ浦方面を望む登山者P1060113
*女体山奥ノ院への雪の参道…ロープウェーで上がってきた一般客は凍結した階段から引き返している。P1060116
*男体山奥ノ院脇の一体のみの狛犬?…もう一体は何処に失せたのか?今回初めて疑問に思ったが…P1060119
*男体山の裏登山道は雪のため下山に苦渋した。P1060120_2
*筑波山神社裏の陽だまりで見つけた福寿草P1060124
*筑波山神社の「一の鳥居」(6丁目鳥居)
4月1日・11月1日に執り行われる御座替祭の一つである神幸祭では、 一の鳥居(6丁目鳥居)より上の地域は、筑波山神社の神域とされ神衣を神輿に収め、氏子地域のつくば道を神輿が渡御するそうな。P1060125
今年は筑波山神社の由緒ある各祭礼に斎行参拝したいものである。

2017年1月29日 (日)

NO404、山ノ手七福神巡り各寺社の変わった物体の見廻り

旧正月である28日(土)、前週に引続き山ノ手七福神の見廻りに出かけ、気になる変わった物体を見廻りカメラに収めてきた。
同行した輩は、男8人女8人の16名、平均年齢は60代後半であるにかかわらず、全員が2時間半の行程を完歩した。行程やタイムスケジュールは前回と同じであるので割愛する。

新宿山之手七福神の概要
新宿山之手七福神は、大久保通りの飯田橋駅と新宿駅との間に点在する7寺社による七福神めぐりで、5ヶ寺2神社で構成され、約2時間で参拝可能な七福神だそうな。

太宗寺(布袋尊)
浄土宗寺院の太宗寺は、1596年頃(慶長年間)甲州街道の道筋に「太宗」と称する僧の太宗庵が始まり。徳川家重臣・内藤正勝の信望を得て、寄進を受け太宗寺と改称している。
*奪衣婆(しょうづかのばばア)
奪衣婆は閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者の衣服をはぎ取るとされる。像の高さは約2.4m。衣をはぐことから、内藤新宿の伎楼の商売神としても信仰されたという。P1060067_2*塩かけ地蔵尊
塩に埋もれたお地蔵様のお塩を少し頂いて、出来物の幹部に擦り込むと治るそうな。治った後に頂いた塩の量を倍返しする決まり。P1060070_2
稲荷鬼王神社(恵比寿神)
稲荷鬼王神社は、天保2年(1831年)戸塚の福瑳稲荷を勧請したといい、熊野から勧請した鬼王権現と合祀して稲荷鬼王神社となった。境内の恵比寿神社(三島神社)に恵比寿神が安置されている。平将門の幼名と関係がある。
*鬼の水鉢
江戸時代の造立とされる石造の水鉢。しゃがんだ鬼の頭に、鬼より大きな手水鉢を乗せた姿をしている。P1060071_2
永福寺(福禄寿)
曹洞宗寺院の大久保山永福寺は、僧尊悦(慶長15年寂)が開基となり慶安元年(1648)創建、もと牛込万昌院末。本尊釈迦如来、薬師堂の薬師如来は慈覚大師の作だそうな。
*福禄寿の頭部を形取りした長細い石P1060075_2
法善寺(寿老人)
日蓮宗寺院の法善寺は、日相上人(貞享4年寂)が創建した。境内に安置してある七面明神は、池上本門寺に帰依していた鳥取城主池田家四代綱清から献上されたもので、法華宗独特の七面信仰江戸進出の最初のもの。
*七面大明神で有名である当寺院に「寿老人」がどう関係するのかよくわからないが棚の上に安置されている。P1060079_2
抜弁天厳島神社(弁財天)
白河天皇の御世、応徳3年(1086)鎮守府将軍・源義家公は、後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願した。義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったと伝えられている。
*やけに鼻の下が長い竜の顔(スケベガオ?)P1060082_2
経王寺(大黒天)
日蓮宗寺院の経王寺は、日静大徳が慶長3年(1598)市ヶ谷田町に創建した。当寺の大黒天像は、日蓮上人高弟の「日法上人」の作で、日静上人が身延山久遠寺より持ち出したものという。度重なる火事にも焼け残ったことから「火伏の大黒天」として崇敬を集めた。
*大黒天は中央の厨子の中に安置されている。撮影禁止の張り紙あり。P1060085_2
*境内には心が和む童地蔵が何体も安置されている。P1060087_2
善国寺(毘沙門天)
日蓮宗寺院の善国寺は、徳川家康より天下安全の祈祷の命をうけて、日惺上人(池上本門寺十二世)が麹町六丁目に文禄4年(1595)創建、寛政5年(1793)当地へ移転した。善国寺の毘沙門天は、加藤清正の守本尊だったとも、土中より出現したともいわれ、江戸の三毘沙門と称されている。
*レプリカと思われる本堂内の木造毘沙門天。P1060091_2
*水が穢れを清めるごとく、煩悩の汚泥を洗い注ぐ水徳を持つ菩薩様。神楽坂に相応しく妙に艶めかしく水っぽい。P1060093_2
前回と同様に東京大神宮そばの鮮魚三昧「うお座」で定食の魚の煮付で熱燗2.5合を痛飲。

2017年1月23日 (月)

NO403、「新宿山の手七福神」の見廻り

今年も遅ればせながらの、貴重な残り福をついでに拾いつつ、1月22日(日)に「新宿山の手七福神」の見廻りに出かけた。この処、日本列島には関東南部を除く九州から北海道まですっぽりと大寒波が襲い、各地で大雪の被害が拡大中である。にもかかわらずこの日は、都内は風もなく日だまりは暖かく澄みきった青空の快晴で、20数名の同行者と共に快適な見廻り日和を過ごした。

【この日の行程】我孫子駅→上野駅→秋葉原駅→四ツ谷駅→(丸ノ内線)→新宿御苑前駅⇒①(布袋尊)霞関山太宗寺⇒②(恵比寿)稲荷鬼王神社⇒③(福禄寿)大久保山永福寺⇒④(寿老人)春時山法善寺⇒⑤(辨財天)厳嶋神社抜弁天⇒⑥(大黒天)大乗山経王寺⇒⑦(毘沙門天)鎮護山善国寺⇒神楽坂界隈(散策)⇒東京大神宮⇒飯田橋駅→秋葉原駅→上野駅→我孫子駅
【行動時間:6時間、 歩行時間:2時間30分、 休憩時間:1時間30分、 歩数:約14,000歩】

新宿山之手七福神の概要
新宿山之手七福神は、大久保通りの新宿駅と飯田橋駅との間に点在する7寺社による七福神めぐりで、5ヶ寺2神社で構成され、約2時間
30分で参拝可能な七福神。

①(布袋尊)霞関山太宗寺
浄土宗 御本尊阿弥陀如来、慶長元年(1596)頃、太宗という僧がこの地に建てたといわれる太宗庵を起源とする。
徳川家康江戸入府に際してこの辺りを屋敷地として拝領した内藤家(後の信濃高遠藩主)の帰依も得、内藤家の菩提寺となった。
江戸六地蔵の3番地蔵、江戸三閻魔の閻魔王像、新宿山之手七福神の布袋尊が安置されている。
*江戸六地蔵の甲州街道を守る3番地蔵P1060042
*江戸三閻魔の閻魔大王と奪衣婆の安置されている閻魔堂。奪衣婆は閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者の衣服をはぎ取るとされる
。衣をはぐということから、内藤新宿の伎楼の商売神としても信仰されたという。P1060040
*布袋尊が安置されている阿弥陀堂P1060039
②(恵比寿)稲荷鬼王神社
稲荷鬼王神社は、戸塚諏訪神社境内の福瑳稲荷を承応2年(1653)に勧請したといい、天保3年(1832)に当地の百姓田中清右衛門が熊
野から勧請した鬼王権現をと合祀して稲荷鬼王神社となった。全国唯一の鬼の福授けの社として信仰を集める。平将門の幼名が「鬼王丸」といったことから、名前を取ったとの謂れがあり、江戸将門怨霊七社の一つである。
*境内の恵比寿神社(三島神社)には、新宿山ノ手七福神の恵比寿神が安置されている。P1060043
③(福禄寿)大久保山永福寺
宗派 曹洞宗 本尊 釈迦如来、 創建年代 慶長15年(1610)以前。
開基の貴雲尊悦は慶長15年(1610)入寂、開山の桂屋瑞漱は万治2年(1659)入寂ということなので、それ以前の創建である。薬師堂の薬師如来は慈覚大師の作と伝えられる。
*札所本尊の福禄寿は、境内の小堂に祀られている。P1060049*福禄寿像P1060048
④(寿老人)春時山法善寺
日蓮宗寺院の法善寺は、春時山と号し、日相上人(貞享4年寂)が創建した。甲州の七面山に鎮まるという七面明神は七面天女・七面
大菩薩とも称し、身延山の鎮守である。法華経守護の神として信仰を集めたが、江戸で祀られたのはこの寺が最初だそう。七面明神は本堂に祀られ、新宿区の文化財に指定されている。
*寿老人は庫裏玄関前小部屋に安置されている。P1060051*法華経守護の神・七面明神観音の画像P1060056
⑤(辨財天)厳嶋神社
抜弁天厳島神社は、応徳3年(1086)鎮守府将軍「源義家」が奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝
利を祈願し、奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)を祀ったと伝えられる。江戸六弁天(本所・洲崎・滝野川・冬木・上野・東大久保)の一つで、東大久保の弁天様とも云うそうな。
*参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰された。P1050231
⑥(大黒天)大乗山経王寺
日蓮宗、経王寺は、日静大徳が慶長3年(1598)市ヶ谷田町に創建した。天和3年(1683)当地へ移転した。当寺の大黒天像は、日蓮宗
中老日法の作で、日静上人が身延山久遠寺より持ち出したものといい、度重なる火事にも焼け残ったことから「火伏の大黒天」として崇敬を集めた。
*開運大黒天・火伏の大黒天として江戸庶民の信仰を集めた。P1060057
⑦(毘沙門天)鎮護山善国寺
日蓮宗、善国寺は、徳川家康より天下安全の祈祷の命をうけて、日惺上人(池上本門寺十二世)が麹町六丁目に文禄4年(1595)創建
、寛政5年(1793)当地へ移転した。
善国寺毘沙門堂の毘沙門天は、加藤清正の守本尊だったとも、土中より出現したともいわれ、江戸の三毘沙門と称されている(三毘沙
門は特定できず不明)。
*善国寺本堂:本堂の毘沙門天像は撮影禁止P1050246
○番外、東京大神宮
東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年に創建され、「東京のお伊勢さま」と称され親しまれているそうな。最初日比谷の地に
鎮座していたことから、世に「日比谷大神宮」と称されていた。関東大震災後の昭和3年に現在地に移ってからは「飯田橋大神宮」と呼ばれ、戦後は社名を「東京大神宮」と改め今日に至る。天照皇大神・豊受大神を主祭神とする。
*拝殿には「良縁・結縁」を求むる多くの参拝者の列P1060063
見廻り終了後、東京大神宮通りにある居酒屋「うお座」で煮魚と刺身の定食(980円)を肴に、熱燗2合を頂いた。

2017年1月16日 (月)

NO402―☆、おまけ・・・鳶火消「梯子乗り」伎の見廻り

「あんばさま」見廻り時に、なんと幸運なことであるか、鳶職の皆さんの「梯子乗り」演技を見学することができた。
上手く写真に撮り込めなかったが、幾つかのタイミングの良い場面が残っていたので、ブログでご案内する。

各々、「梯子わざ」の名前が合致しているかは判らないが、調べた名前を貼りつけておく(間違ってたらご勘弁)。
写真は数少ないが、見終わったら出演者(知らない方々であるが)に敬意を表して、心からの拍手をお願いしたい。

*狐遠見(きつねとうみ)P1050992
*肝潰し(きもつぶし)の準備?P1050993
八艘(はっそう)P1050994
*遠見(とおみ)P1050996
*二本八艘P1050999
*足絡め(あしからめ)
P1060001
唐草(からくさ)or谷覗き(たにのぞき)
P1060002
*逆さ大の字(さかさだいのじ)P1060003
*全員集合(龍ヶ崎の皆さんの木遣り歌)P1060008





NO402、「あんばさま」と呼ばれて親しまれた大杉神社の見廻り

当ブログを愛読されている方々、時々覗きに来られる方々、間違って覗いた方々、森羅万象・生きとし生けるもの、遅ればせながら「新年明けましておめでとうございます 本年もよろしくお願いいたします」

年末から新年は8日にかけて、気張らずではあるがそれなりに真面目に、アルコールの抜けた時間に、ジムのプールに通い9日に行われた「CSマスターズフェスティバル」準備のために水練に専念していたsa-sanであった。そのため見廻りも疎かになり、今回まで見廻り報告ができなかった理由である。辰巳国際水泳場50m長水路でのマスターズ成績は、100m自由形・50m自由形ともにそれなりに自己満足できる結果であったことを報告する。

睦月、小正月の15日(日)、我孫子・巨木の会のメンバーと隣県茨城の稲敷阿波にある大杉神社参拝と御神木の巨木・大杉の見廻りに出かけた。

*手水屋の龍
1250年の歴史を持つ大杉神社で最初に出迎えるのは、口から清めの淨水を注ぐ2頭の龍P1060024
*大杉神社拝殿
大杉神社は縄文以来の神と言われ「アンバ神」と称されていた。後に神霊が巨杉に宿すことから「大杉神社」と称されるようになったが、今でも愛着を込めて稲敷阿波(アバ)の「アンバ様」と呼ばれている。
「アンバ神」は縄文期の千葉房総から茨城東南部を支配していたウナカミ国を守護した神様で「日の神様」であった。また、ウナカミ王は海・湖・河の支配王であったので「アンバ神」は海河守護・海河交易安全の神様でもあった。
古墳時代になると多くの豪族がウナカミ国に侵入し争いが起きたが、ウナカミ王は国の一部を譲り人々の平和と平穏を守護した国譲りの王であり、「アンバ様」もまた庶民の平和と平穏を守る神様である。P1060006
*楼門(麒麟門)
「あんば参れば日光見るに及ばず」と云われるほど、社殿群は豪華な彫刻や彩色が施されてどこか日光東照宮に似ている。江戸を守る鬼門守護神社であるので、この楼門を開けると江戸に魔物が侵入するため門扉は開けられることはない。P1050991
*徳川四代将軍家綱公奉納の燈籠
三つ葉葵の御紋と美しく舞い踊る天女像が彫られている。P1060005
*厄除け桃
厄除けの撫で桃。桃は魔を除けると云われ、参拝者が撫でまわしツルツルに光っている。P1060011
*拝殿・幣殿・本殿の彫刻
大杉神社社殿を取巻く、孝行な人々を描いた説話集である「弐拾四孝」を題材とした「瑞垣欄間彫刻」P1060017
*御神木「太郎杉跡」
寛政10年に火災により焼失した。焼け株の上に八畳の部屋がすっぽりと収まるほどの巨木だったそうな。P1060015
*御神木「次郎杉」 樹齢千年・樹高40m・幹周7.5mP1060035
*御神木「三郎杉」 樹齢400年・樹高25m・幹周7.5mP1060025
*勝馬神社のスダジイ
境内南東に「勝馬神社」がある。祭神は不詳である。古名を「馬櫪社」といい、独自の古い由緒を持つ。日本中央競馬会(JRA)美浦トレーニングセンターの関係者が、祈願に訪れる。当然、競馬ファンは必勝千金を願い跡を絶たない。傍らに懲りない面々を何年も眺めていたであろうスダジイの巨木が佇んでいる。根元の空洞には観音菩薩像が納置されていた。P1060034
*相生神社の由緒書き
神社の写真は「子授け御本尊」が生々しく写るので、憚る思い強く、割愛する。興味のある方はご自身で御参拝されたし。P1060031
帰路、印旛郡安食の「鰻さかた」で、チト値が張ったが(3300円)上うな重を皆さんと美味しく食味した(酒類なし)。

2016年12月22日 (木)

NO401、白銀台の庭園公園の見廻り

12月21日(水)、グルメの仲間と目黒通りと外苑西通りの「白金台」と呼ばれる地域から五反田にかけて、暖かな冬日の中、歴史のある庭園等を巡りながら見廻りをした。
いわゆる白金台地域は、かってはごく普通の庶民の住宅だったが、バブル景気の影響でコジャレタお店や高級マンションが建つようになって、若い女性住民が「シロガネーゼ」などと呼称され有名になった地区である。
「白金台」の読み方は「しろがねだい」ではなく、正しくは銀(しろかね)の「しろかねだい」である。町名の起源となった白金長者(柳下上総介)が白金(しろがね=プラチナ)ではなく、銀(しろかね)を保有していたためであると云われている。ローマ字表記の案内板などには「SIROKANE○△□」と正しく表記されている。

*東京都庭園美術館
港区白金台にある都立美術館で、旧朝香宮邸(あさかのみや)とも呼ばれる。
*正門
武蔵野の面影を残す国立自然教育園に隣接した敷地および建物は、朝香宮鳩彦王が1947年の皇籍離脱まで暮らした邸宅。この土地は白金御料地と呼ばれ、近世には高松藩松平家の下屋敷があった。
宮邸は朝香宮一家が退去した後、吉田茂によって外務大臣公邸(総理大臣仮公邸)として1947年~1950年に使用された。1950年西武に払い下げられ、白金プリンス迎賓館として1974年まで使用された。1981年東京都に売却され、1983年(昭和58年)から美術館として一般公開されている。P1050923
*本館
旧朝香宮邸である。鉄筋コンクリート造2階建て(一部3階建て)地下1階、1933年(昭和8年)5月に完成。外観にはほとんど装飾がみられないが、内装には当時流行のアールデコ様式の粋を尽くした瀟洒な建物である。P1050925_2
*アール・デコ調の正面玄関ガラスレリーフ扉
ルネ・ラリックの作品で、有翼の女性をモチーフとし型押ガラス製法で作られている。P1050932
*庭園側の外観P1050938
*庭園
庭園は、芝生広場、日本庭園、西洋庭園の3つのエリアで構成されており、季節ごとにさまざまな花を楽しむことができる。本館等の施設に入館せず庭園のみの入場も可能である。P1050943
*瑞聖寺大雄宝殿
瑞聖寺(ずいしょうじ)は、港区白金台三丁目にある禅宗寺院。宗派は黄檗宗。山号は紫雲山。本尊は釈迦如来。
瑞聖寺は寛文10年(1670)に創建された。開山は日本黄檗宗2代の木庵性?、日本黄檗主の祖・隠元隆琦の招きで明暦元年(1655)に中国・明から来日し、寛文5年(1665)に江戸入りした。開基(寺院創設の経済的基盤を提供した人物)は摂津麻田藩主(大阪府豊中市)青木重兼である。重兼は黄檗宗に深く帰依し、晩年には家督を譲って出家している。江戸時代には江戸の黄檗宗の中心寺院として「一山之役寺」と呼ばれていたそうな。
大雄宝殿および通用門1棟は東京都指定有形文化財、平成4年(1992)に国の重要文化財に指定された。P1050947
*八芳園
港区白金台に所在する1万2000坪の敷地内に庭園のあるレストラン・結婚式場である。庭園の名称は「四方八方どこを見ても美しい」に由来する。
江戸時代には譜代旗本・大久保忠教(彦左衛門)の屋敷であったが、その後薩摩藩島津氏の下屋敷を経て、明治時代に渋沢喜作の手に渡る。
大正4年(1915)、実業家・久原房之助の邸宅として現在の建物と庭園が整備された。戦後久原(当時公職追放中)は、日本庭園を生かした本格的な料亭を共同経営し「八芳園」と命名した。昭和25年(1950)に創業。P1050962
*池田山公園
品川区東五反田にある品川区立の都市公園である。
当地一帯は江戸時代は岡山城主・池田氏の下屋敷があったところであり、付近一体の高台は「池田山」という名称で呼ばれた。また、池田山公園のあるところは、池田家の下屋敷の奥庭の部分であった。1985年に区立公園として開園された。現在でも、池や滝を中心に江戸時代の回遊式庭園が良好に整備・保存され、一般に公開されている。Photo
*ねむの木の庭
品川区東五反田五丁目にある品川区立の公園である。当地にはもともと皇后美智子の生家として知られる正田家の邸宅があった。平成16年(2004)に「ねむの木の庭」として開園した。名前の由来は皇后が高校時代に自身で作った詩「ねむの木の子守歌」に因む。様々な樹木や草花で彩られる公園は邸宅の跡地なので広くはないが、皇后・美智子に因むバラの「プリンセス・ミチコ」も植えられている。P1050977
見廻り後には、グルメの会・12月恒例の忘年会。今回は銀座「俺のスパニッシュ」で大宴会。

2016年12月18日 (日)

NO400、布川徳満寺(府川城跡)と巨木・樹木の見廻り

12月16日(金)、我孫子の巨木を巡る会のメンバーと利根町布川「徳満寺」の樹木観察見廻りに出かけた。このところ寒波襲来との事で寒さが厳しく続いていたが、この日は風も少なく日向ぼっこに良い御日和であった。

*府川城跡
府川城は南北朝時代に豊島頼貞により築かれたという。戦国時代、豊島氏は後北条氏に属し利根川の水運を監視する役割を担っていたそうな。豊
島頼重は天正18年(1590)の小田原城攻めで豊臣方に降り、忍城攻めで没した。嫡子明重は徳川家康に召し出され1千7百石の旗本となり、代わって府川城主となった松平信一が5千石で知行し、関ヶ原の戦いの後に3万5千石で土浦城主に抜擢され府川を去り、府川城は廃城となった。この城は、現在の徳満寺付近一帯にあったが、今は、空掘と土塁の跡のみが残っているのみである。P1050855
*徳満寺
海珠山多聞院徳満寺。真言宗。創建は不明、元亀年間(1570年頃)祐誠上人が中興したそうな。 本尊は木造地蔵菩薩立像。 年に1度の御開帳で
門前には市がたった。現在でも毎年11月下旬の御開帳の時、地蔵市が開かれて賑わう。地蔵菩薩は、「子育て地蔵」として信仰を集めている。
*徳満寺総門 P1050853
「金銅板両界曼荼羅」は国指定文化財で東京国立博物館に寄贈。
また、「本尊木造地蔵菩薩立像」「間引き絵馬」は利根町指定文化財。
境内には
樹齢400年以上と推定される巨木や銘木がある。

*本堂である地蔵堂(本尊木造地蔵菩薩立像収容)P1050873
*間引き絵馬
母親が生まれたばかりの子を押殺する姿が襖に移りその影が角の生えた夜叉のごとくに描写され、傍らで地蔵菩薩が泣いている絵馬である。民俗
学の父、柳田國男は13歳の時、布川で過ごしその時この絵馬を見て「絵馬の意味を子供心に理解し寒いような気持になった」と述べている。P1050868
*山門を仁王様のように守る「タブノキ(椨)」
樹高:26.0m  幹周:375㎝  樹齢:推定400年
境内へ上がる石段の右側に聳え立つ。P1050851
*鎮守の森を囲む「ケヤキ群」
樹高:28.0m  幹周:314㎝  樹齢:推定400年
欅の巨木が多く、南側の崖地などで鎮守の森を囲んでいる。P1050854
*雷除けの「キササゲ(雷電木)」
樹高:15.5m  幹周:162㎝  樹齢:?年
庫裏前に前にある。キササゲは雷が落ちない樹と云われている。P1050860
*お釈迦様の悟りの木「ボダイジュ(菩提樹)」
樹高:13.0m  幹周:261㎝  樹齢:?年
お釈迦様がこの樹の下で悟りを開いたので、お寺によく植えられる木。
P1050862
*患う事のない木「ムクロジ(無患子)」
樹高:18.5m  幹周:253㎝  樹齢:?年
本堂裏に2本立ちの無患子がある。P1050858
*ハガキの木の「タラヨウ(多羅葉)」
樹高:19.5m  幹周:233㎝  樹齢:推定400年
本堂裏の布川城の面影を残す一画に「ハガキの木」タラヨウの巨木がある。P1050859
*珍しい根幹の「モッコク(木斛)」
樹高:16.5m  幹周:176㎝  樹齢:推定400年
本堂裏の築山マウンド上に木斛の巨木がある。太い根が地上を這っている。P1050882
ここまで来たら、柳田國男が少年時代に書物を片っ端から読み漁ったと云う蔵書庫や、綺麗すぎて奇怪な玉を盗み見て浮遊状態になったと云う祠のある柳田國男記念館まで足を伸ばし見廻りをした。
*柳田國男記念館P1050889_2






2016年12月11日 (日)

NO339、茨城県坂東市立郷土館見学と将門伝説史蹟の見廻り

12月10日(土)、坂東郷土館ミューズで「坂東市本将門記」の初公開と企画展「将門伝説と古代東国の争乱」が執り行われていたので、我が市内の将門御贔屓仲間6名で見学に出かけた。板東市は言葉は悪いが茨城県南の「陸の孤島」的地域で公共交通手段での訪問はややこしい場所にある為、タップリ1時間かけ、マイカー2台での出陣となった。
我が将門御贔屓仲間の主張する共通項は「我孫子の日秀地区一帯に、かって将門公の主要な本拠地があり、その根拠は、『遥か彼方都のある西の方角から、死霊となった将門公と主従数名が天馬に乗り、雲間から手賀沼を越え日秀の台地に帰還した』地に村人が祠を祀り、現在まで手厚く崇拝して、今の『日秀将門神社』を建てた」との言伝えに寄る。この説は今のところ少数説ではあるが、主要な本拠地だからこそ「帰還」との言葉が信憑性を持ち、各地の本拠地伝説には「帰還」という言葉は一切使われてない事からも日秀地区一帯を本拠地の一つであるとする。
不本意にも無残な死に方をした将門公だからこそ、望郷の願いは強く、<本拠地>に残した一族郎党に逢いたいとの願望の「帰還」であったとsa-sanも信じたいのである。

*坂東市郷土館の将門関連資料の一部
この郷土館の集めた将門関連資料は絶賛ものである。板東地区の関連者の将門に対する熱意は、「恋慕の情の如く」と云っても云いすぎない程と感心しきりであった。

P1050796
*将門公像(撮影禁止であったが、気付いたのはシャッターを押した後であったので、掟破りの掲載)
県指定文化財(国王神社蔵)、衣冠束帯姿の寄木造座像。将門の三女・如蔵尼が地蔵菩薩に帰依し、将門の苦患を助けようと一刀三拝して刻んだと云われる。P1050791

*将門の和歌
将門記によると、敵将の平貞盛の妻と源扶の妻たちを捕らえたという報告を受けた将門は、先の合戦で自分の妻子が捕らえられ殺されているにもかかわらず、「女性の流浪者は、その本籍地に身柄を帰すのが法令の慣例である。」といい、将門は衣服を与え、和歌を詠んで添える場面が描かれている。
この時の和歌「よそにても風の便りに吾そ問ふ 枝離れたる花の宿りを」
(遠く離れていても香を運ぶ風の便りによって、枝を離れて散った花を尋ね求めることができる。同じように散る花のように夫を離れて寄る辺ないあなたを案じている。)P1050803
*国王神社
社伝によると、平将門の戦死の際、難を逃れ奥州に隠棲していた三女如蔵尼が、天禄3年(972)にこの地に戻り、将門の像を刻み祠を建て安置し祀ったのがはじまりとされるそうな。P1050813
*将門公の復権(国王神社・将門史蹟記念碑)
桓武天皇の子孫平氏でありながら、兵を挙げ新皇を名乗ったことから「朝敵」と見做された将門は、表立って敬うことを許されない存在であった。朝敵の認識が解かれたのは、時代が下った徳川幕府のときである。しかし明治新政府によって、過去に朝敵であったことが再び問題視された。 国王神社でも、信仰する氏子だけで祭事を行わなければならなくなった。織田完之氏などの復権運動家により、将門公の評価が回復するのは昭和末期になってからである。P1050811
*一言神社
将門が水に困っていたとき、一人の老翁の力で(一言願えば霊験あらたか)水が湧きだした井戸があり(石井の井戸)その老翁を祀った神社だそうなP1050826
*延命院
延命院は新義真言宗に属し神田山如意輪寺延命院。また篠越山延命院観音寺ともいう。本尊は延命地蔵菩薩。P1050830
将門は、天慶3年(940)2月14日の合戦を迎えて石井の北山に最後の布陣をした。最初は風上に立って優位な戦いであったが、急に風向きが変わり正面から突風を受ける立場になり、敵の流矢を眉間に受けて倒れた。その首は藤原秀郷(俵藤太)によって京都に送られさらされた。残された将門の遺体をひそかに神田山の延命院境内に葬ったのが、この胴塚と伝えられる。この地は、相馬御厨の神領であばかれることがなかった。
胴塚の西側には、昭和50年に東京都大手町の将門首塚から移された「南無阿弥陀仏」の石塔婆が建てられている。P1050837
*胴塚の天然記念物:カヤノキ
胴塚を抱くように大きなカヤノキが立っている。幹回り3.6m(実測はしていないが見た目にはそれ以上である)、樹齢は1千年以上とされるそうな。P1050843
帰路には、守谷市坂戸井にある鬼怒川沿いの手打蕎麦庵「竹やぶ」で美味い田舎そばを同行者と啜りながら、我孫子日秀の将門公主要本拠地説の研究を、更に進める必要性を強く感じた次第である。

2016年12月 7日 (水)

NO338、武蔵野の古刹・平林寺と紅葉の見廻り

12月06日(火)、明日は24節気「大雪」と云うに、幸にも小春日和に恵まれたこの日、気のおけない元山仲間と今年最後の最後と考えられる「武蔵野紅葉探しハイク」に出かけた。

当日の行程:我孫子駅7:15→北朝霞駅(西武バス)→平林寺(西武バス)→新座駅→府中本町駅⇒→大国魂神社→府中駅(昼食)(京王線)→高幡不動駅→高幡不動尊→調布駅(小田急バス)→深大寺→深大寺そば処→深大寺(京王バス)→つつじヶ丘駅(京王線)→新宿駅→我孫子駅17:45 
行動時間:7:15~17:45=10時間30分  歩行数:不明

今回は平林寺についての見廻り報告とする。(愛用持参のLUMIXの電池切れという不手際により現場の写真撮影なし)

平林寺は、埼玉県新座市野火止にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は金鳳山。修行道場として僧堂が設置されている。境内林は、武蔵野の面影を残す雑木林として、昭和43年(1968)に国の天然記念物に指定された。P1050736
南北朝時代の永和元年(北朝)(1375)、埼玉岩槻に創建、開山は当時鎌倉建長寺の住持をしていた石室善玖禅師。臨済宗妙心寺派の寺院。
寛文3年(1663) 川越藩主・松平信綱の遺志をうけて、子の輝綱が菩提寺として野火止に移転。なお、平成21年11月、今上天皇・皇后が訪問している。

*平林寺境内林・P1050719
雑木林(ぞうきばやし)としては国内唯一の、国の指定天然記念物。およそ43ha(13万坪)の広大な境内林は、季節ごとに武蔵野の風情をたたえているそうな。アカマツ林やコナラ・クヌギ林が中心で、エゴノキやイヌシデなどの高木も見られる。とりわけ紅葉は有名で、毎年秋が深まる頃には境内林が真っ赤に染まる。
*平林寺境内林・・P1050722
*平林寺境内林・・・P1050723

*総門
大門通りに面する総門は、禅寺らしく質素で重厚な造り。表には山号「金鳳山」と共に「臨済宗平林寺専門道場」と掲げられている。
(総門から山門・仏殿・中門と一直線に続き、この4棟は重厚な茅葺屋根の造りで、すべて埼玉県の有形文化財に指定されている)P1050697
*山門
平林寺のシンボル。350年以上の風雪に耐え、平林寺が岩槻から野火止に移転された際に移築された貴重な建造物。山門は「三門」とも書かれ「空・無相・無作」三解脱門を表すそうな。P1050703
*仏殿
端正かつ威厳ある佇まいで、本尊は釈迦如来坐像、脇侍は迦葉尊者と阿難尊者。P1050705
*仏殿扁額は「無形元寂寥」(かたちなくしてもとせきりょうたり)と書かれ、悟りの境地「空」を表す言葉である。P1050708
*中門
総門をそのまま小振りにしたようで、中門をくぐると本堂(入山禁止)に入る。P1050714
*本堂
本尊は釈迦如来坐像。扁額は「平林禅寺」、総門の「金鳳山」、山門の「凌霄閣」と共に江戸初期の文人石川丈山(じょうざん)による揮毫。(写真なし)

*半僧坊感応殿(はんそうぼうかんのうでん)
半僧坊という寺の鎮守。烏天狗に似た霊妙摩訶不思議な御神体が祀られている。半僧坊は松や杉に半身を現すと云われる所願成就の大権現で、広く崇拝されているそうな。

P1050730
*放生池(ほうじょういけ)
朱も鮮やかな鯉が群れている。池の水は野火止用水から通じているそうな。P1050725
*松平伊豆守信綱
「伊豆守と知恵比べなどするはおろか。あれは人間というものではない」=知恵伊豆と呼ばれた松平信綱のイラスト(Wikipedia)Yjimage信綱は慶長元年(1596)、徳川家康の家臣大河内久綱の長男として、武蔵国(現埼玉県)に生まれた。6歳にて自ら望んで叔父松平正綱の養子となり、江戸幕府第3代将軍となる家光の小姓として出仕、そのまま老中まで登り詰めた。家光亡き後も第4代将軍家綱の老中として留任し、幕藩体制の完成に大きく貢献した人物。
江戸幕政下では島原の乱鎮圧、明暦の大火処理、また第5代川越藩主として玉川上水・野火止用水の掘削等を行い、数々の優れた手腕は知恵伊豆と称えられ、多くの逸話を残している。X9qg7o1xwzcr67jrm2eg3insd9oe4udzm2o信綱は大河内松平家を興し、平林寺を初代から一族歴代の菩提寺とした。
信綱の遺志をうけて、寛文3年(1663)子の輝綱が菩提寺として野火止に移転以降、350年以上の時を経た霊廟は今も厳粛な雰囲気を漂わせている。

平林寺には、文人画家・富岡鉄斎、電力王・茶人・松永安佐エ門、日本画『炎舞』・速水御舟など、著名人の墓地もある。

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