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2017年6月23日 (金)

NO428、紫陽花の見頃、松戸市平賀・本土寺の見廻り

6月21日(水曜)は梅雨時真っ最中で、一日中本降りの雨。紫陽花の見頃の時期であり、平賀は本土寺の見廻りを計画していたが、予報もみごとに的中で、この時期当然と云えばその通りであるが、雨、あめ、雨での見廻りとなった。いかにこの寺院が紫陽花で有名であるのかが、この日には実証された。訪れる人が雨だというのに何んと多いことであるか!!

☆本土寺の由来
宗派 は日蓮宗本山 、山号は長谷山、本尊・三宝尊。 創建年は建治三年(1277)、 開山は日蓮の高弟・日朗、 別称あじさい寺。
本土寺は源氏平賀家の屋敷跡と伝えられ、建治三年(1277)領内の地蔵堂を移し法華堂として始まり、後に日蓮聖人より長谷山本土寺と寺号を授かったそうな。池上の長栄山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺と共に、日朗門の三長三本と呼ばれている。かっては本堂を中心に七堂伽藍がその山容を誇ったが、度々の「不受不施の法難」と明治維新の廃仏毀釈運動のために衰減したが、三聖人出生の聖跡として知られる名刹である。三聖人とは平賀家の三兄弟で、日蓮第一弟子の日朗聖人、日蓮に次ぐ偉聖と例えられる日像聖人、池上本門寺、鎌倉妙本寺の日輪聖人である。現在では1万株の紫陽花、5,000株の花菖蒲でも 有名で「あじさい寺、花の寺」として親しまれる。本土寺の「本土」とは「我此土(わがこのど)」であり、お釈迦様が本当の佛、本佛に由来するそうな。
(注)不受不施(ふじゅふせ)とは、日蓮の教義である法華経を信仰しない者から施し(布施)を受けたり、法施などをしないこと。

*仁王門
間口三間半、奥行二間、木造瓦葺桜門式。参道の正面に「長谷山」の扁額を掲げた朱塗りの高楼。階上には金色の千体佛が祀られている。

P1070433
*五重塔
平成三年に、日像聖人六百五十遠忌記念として建立される。高さ18m、中にインドのネール首相より贈られた真仏舎利の一粒を納め、千体佛と共に祀られているそうな。P1070438
*松尾芭蕉の句碑
「御命講や油のような酒五升 芭蕉」P1070440
*本堂
間口八間、奥行十間、木造銅板葺、慶安四年(1651)に小金城主一族の恵了院日修が息女の菩提を祈って造立したと記録されている。
P1070444

*甲斐武田一族・秋山夫人の墓
秋山夫人とは徳川家康の側室「於都摩の方」、家康の五子万千代(武田信吉)を生み、信吉は御三家水戸家に繋がる。水戸光圀が本土寺のこの墓石を建立したとつたわる。P1070447
*像師堂
京都開教の祖・日像上人の「日像菩薩像」が祀られる。
「日像菩薩誕生水」と合わせて「子安乳出の日像様」として信仰を集めている。P1070456
*乳出の御霊水
「日像菩薩誕生水」とも言われ、日像上人がお生まれになったとき清水が湧き出て、それを産湯として使ったとされる。後に井戸とし、その水を飲むと病気が治り、たちまちに乳の出がよくなるという不思議なご利益により当時は参詣祈願の列が絶えなかったそうな。またその井戸の脇には銀杏があり、乳が垂れたような枝が生え「乳出銀杏」と言われている。P1070454_2
*宝樹庵P1070465
*開山門
文政四年(1821)に建立。 旧輪蔵院の門。P1070466_2
*赤門P1070467_2
*花菖蒲(見頃は終わっていた)P1070450
*紫陽花1P1070449
*紫陽花2P1070452



2017年6月19日 (月)

NO427、柏市増尾城跡周辺と江口章子所縁地の見廻り

6月18日(日曜)、文学散歩の会のメンバーと増尾城跡周辺の史跡や詩人江口章子に所縁のある地域を見廻りした。

当日の行程:柏駅⇒バス名戸ヶ谷車庫→薮崎家長屋門→法林寺→増尾城跡公園→廣幡八幡宮社→江口章子辻堂→萬福寺→少林寺→東武増尾駅⇒柏駅⇒我孫子駅
歩数概算=13,500歩 行動時間:4時間30分

*柏市名戸ヶ谷薮崎家長屋門  
伝宝暦年間建造で良い状態に保全管理されている。薮崎家は戦国時代増尾城に繋がる旧家だそうな。P1070398_2
*薮崎家の彌惣治文庫文芸資料館 
館長は、与謝野晶子との論争でも有名な詩人・随筆家の大町桂月に感銘を受け、掛け軸や著書などを収集し、自宅内に資料館を設立し
た。そのほか、幕末維新期の儒学者・芳野金陵の掛け軸や明治から大正時代の浄土宗の僧侶・山崎弁栄の宗教画など柏にまつわる偉人の作品が約300点以上収集の資料館。見学無料。P1070390_2
*宝林寺の山門と大イチョウ
瑞雲山宝林寺。真言宗。本尊は不動明王。 創建は慶安3年(1630)。境内の大銀杏は柏市指定天然記念物で樹齢400年と推定され
ている。この大銀杏には、康応元年(1389)頃に、越後の比丘尼が托鉢の途中、一夜の宿を求めたので泊めたところ、お礼にと一粒の銀杏を取り出し「これを蒔くように」と言って立ち去ったという伝説があり、この実が育ち高さ30m、根本の太さが周囲14m以上に達する樹に育った。このあたり一帯が大飢饉に見舞われ村に食べる物がなくなった時、村人はこの銀杏の実で飢えをしのいだという話が残っている。P1070400_2
*増尾城跡
千葉県柏市増尾にあった日本の城。増尾城は、小金城高城氏の家臣・平川若狭守の居城であったそうな。高城氏は北条氏に属し、1590
年(天正18年)の「小田原攻め」の際に廃城となったと思われる。現在は増尾城址総合公園として整備されており、土塁や空堀のほか、虎口などの遺構も良好な状態で保存されている。P1070401_2
*廣幡八幡宮社
創建は、第59代宇多天皇の御代で「下総国第一鎮守」と伝えられている。徳川時代に至って、慶安三年(1649)には、三代将軍家光公
より御朱印地十石を献上されたそうな。
御祭神は、誉田別名(15代応神天皇)・気長足姫命(神功皇后)・玉依姫命。仲哀天皇・武内宿称を合祀。
現在の本殿は、天保年間(1830年~1843年)造営と伝えられ、権現流造り、基礎の石垣は安土桃山時代(1573年~1595年)の形式を遺
す。本殿周囲の彫刻は、御祭神の事跡を刻んだもので、精巧秀麗なものである。P1070408_2
*宝暦七年(1758)に藤原本多正珍より、石鳥居一基を寄進された。これは当宮の外、布施弁天、塚崎の神明宮の二社一寺に寄進されたも
のと同一。P1070409_2
*椿の古木
八幡社に隣接した邸宅の庭で、椿の古木を庭師が手入れをしていたので問うたところ、「推定樹齢450年のヤブツバキ」との事、見事
な椿である。P1070412450_2
*江口章子が仮寓した辻堂の念仏堂P1070416_2江口章子の概暦:江口章子( あやこ)「明治21年(1888)4月1日 ~ 昭和21年(1946)」は、歌人、詩人。北原白秋の2番目の妻。
大分県西国東郡香々地町に生まれ、大分高等女学校で学ぶ。18歳で弁護士と結婚、8年後離婚すると平塚雷鳥を頼って上京。大正5年
(1916)から市川真間で白秋と同棲、大正7年(1918)には入籍するも、2年後離婚。大分に戻り柳原白蓮を訪ねた後、西国巡礼。大正10年京都の大徳寺芳春院に入り、3度目の結婚をするが2ヶ月後には出奔。昭和5年(1930)芳春院聚光院の中村戒仙と結婚するが、翌年には精神に変調を来し京都帝大病院精神科に入院。昭和13年(1938)戒仙と離婚。晩年は香々地町の実家に戻り、昭和21年12月29日に、座敷牢の中で糞尿にまみれ餓死同然と死去。正気と狂気の58歳の波乱の人生を終わった。(写真はYahoo画像より)Yjimage_2
中村戒仙と章子:
増尾の旧家豊田家の次男として明治14年6月に生まれ、7歳で少林寺住職の養子となり、京都大徳寺の要職を歴任、章子と出会った後、大正15年(1926)に増尾宮根の辻堂に章子を寓居させ、昭和5年に結婚、昭和13年(1938)離婚。
中村戒仙:明治14年〜昭和47年(大徳寺508世・大徳寺聚光院住職)道号隋応・法諱宗雄・室号直入軒・別号雪山・高安。
聚光院(じゅこういん)京都府京都市北区紫野にある臨済宗大本山大徳寺の塔頭のひとつである。利休の墓をはじめ、三千家(表千家
・裏千家・武者小路千家)歴代の墓所となっている。

*萬福寺の阿弥陀堂
医王山福満寺。真言宗。 寛永2年(1625)創建といわれる阿弥陀堂には、本尊の阿弥陀如来坐像(千葉県指定文化財)が安置。 こ
の像は高さ88.1㎝の等身大、カヤ材を用い割はぎ造の技法で制作、楽な姿勢や穏やかな面相に定朝様式の特色があり、作風から12世紀後半の作とみられるそうな。P1070422_2
*少林寺の歌碑
増尾山少林寺。臨済宗。本尊は十一面観世音,阿弥陀如来で、開山は永禄元年(1558)と言われている。
江口章子の歌碑:「手賀沼の水のほとりをさまよいつ 芦刈る音を わがものとせし 章子」P1070428_2
*少林寺の1石五輪搭
相馬重胤の墓とも伝えられる一石五輪塔。 重胤は初代相馬師常から6代目で、所領奪回のため奥州に下向し、南北朝の戦乱を生き抜
いた。 石柱には「鎌倉で自害」と刻まれている。P1070430_2≪一石五輪塔は一つの石から彫りだされたもの。五輪塔は主に供養塔・墓塔として使われる仏塔の一種。五輪卒塔婆、五解脱輪塔とも呼ばれる。五輪塔の形式は下から、地輪は方形、水輪は球形、火輪は宝形屋根型、風輪は半球形、空輪は宝珠型≫

2017年6月17日 (土)

NO426、下総佐倉藩・佐倉城跡の見廻り

梅雨入り後の16日(金)、佐倉城跡の天然記念物「夫婦もっこく」を観察会のメンバー11人で見廻りをした。この日は快晴で汗ばむどころか、汗が滴るほどの温度上昇となり、今年の暑さにはまだ慣れきれてない加齢者軍団には厳しい行軍となった。

この日の行程:我孫子駅改札集合⇒成田駅⇒京成成田⇒京成佐倉→→国立博物館入口→愛宕坂→佐倉城址公園→本丸→天守台跡→夫婦木斛→姥ヶ池→菖蒲園→大手門跡→麻賀多神社→昼食そばや→佐倉武家屋敷→JR佐倉駅⇒成田駅⇒我孫子
概算歩数:16,000歩

*愛宕坂のケヤキ巨木に住むアオバズク
全長27-30cm。頭部から背面は黒褐色で、下面の羽毛は白く褐色の縦縞が入る。嘴の色彩は黒い。後肢の色彩は黄色。鳴き声は「ホッ
、ホッ」と二回ずつで規則正しい。平地の森林や農耕地に生息し、夜行性で、昼間は樹上で休む。食性は動物食で、昆虫類、両生類、爬虫類などを食べる。樹洞に巣を作り、1回に2-5個の卵を産む。大木の樹洞に巣を作るため社寺林に飛来し、昆虫類・爬虫類・小動物を食べ、日本では最も身近なフクロウと言っていい。

P1070343
*愛宕坂のケヤキの巨木・・・アオバヅクは右のケヤキに棲みついている。P1070345
*古園石仏大日如来像が何故か実物大で再現
大分県臼杵市にある磨崖仏である大日如来像のレプリカが設置されている。この石仏の仏頭が再び体とつながったことで、参拝すると
首がつながる、会社でリストラ(解雇)されないという俗説が生まれたそうな。P1070348
☆佐倉城址公園は、佐倉城跡の中に設置されている公園。公園内には天守閣跡、空堀など城の遺構が多数残され、天守閣跡脇の樹齢約400年の「夫婦モッコク」(千葉県指定天然記念物)をはじめ、シイ、カシ、モミジなどの大木がいたる所にある緑多き歴史公園である。

*馬出し空堀
馬出し空堀の説明板では『城門前に築いて人馬の出入を敵に知られぬようにした土手が馬出しであります。』とあるが意味不明の説明
で、正しくは【馬出し空堀は敵から攻められにくくするために空堀をめぐらせたもの。堀があれば、敵は直接門にはたどりつけず、堀を迂回して攻めてくる敵に横から矢を射掛けるなどして撃退する設備である。】

P1070234
☆佐倉城は、慶長15年(1610)に佐倉に封ぜられた土井利勝によって翌慶長16年~元和2年(1616年)までの間に築造された平山城。北に印旛沼、西と南に鹿島川・高崎川が流れる低地の標高30m前後の台地に位置する。佐倉城はこうした地勢を巧みに利用し、水堀、空堀、土塁を築き、東の台地上に武家屋敷と町屋を配し、城下町とした。
城内は、城の中心をなす本丸、二の丸、三の丸、曲輪からなっていた。大手門(追手門)、三の門、二の門、一の門を経て広い本丸の
跡にでる。本丸には屋形があり、天守閣、銅櫓、角櫓などがあった。明治時代、ここに連隊が設置される際にすべて解体されたため、城の建造物は、西出丸薬医門を除き一切残っていない。本丸の天守閣跡地と夫婦木斛(右側)

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☆佐倉城は江戸防衛の東の要衝及び西方面より西国大名に江戸が攻撃された際の将軍家の退避処として徳川譜代有力大名たちが封ぜられ、幕府の老中職についた大名が徳川各藩中最多を数えたことから、俗に『老中の城』とも呼ばれ、それとともに城下町も栄えた。大手門跡。P1070370
*堀田正睦(ほった まさよし)は、江戸時代末期の大名・老中首座。下総佐倉藩の第5代藩主。258年間に及ぶ佐倉藩の歴史の中でその6割弱の141年間堀田家が治め、その石高は概ね11万石。千葉県における最大の藩であり、幕末に筆頭老中としてハリスの条約交渉に全力を注ぎ、日本を開国へと導いた堀田正睦を輩出した。正睦は深刻な財政難に悩む藩を改革により立て直すことに成功し、また洋学を積極的に取り入れ、蘭方医、佐藤泰然を佐倉へ招く。佐藤は、医学塾兼診療所、佐倉順天堂(順天堂大学の前身)を開らいた。P1070237
*「姥が池」(うばがいけ)
昔、この池のまわりで家老の娘をおもりしていた姥が、あやまって娘を池に落として沈めてしまい困り果てて自分も身を投げたという
ことからこのような名がついたそうな。水仙が咲き誇っていた。P1070357
*花菖蒲園 約9000株 50種P1070361
☆明治初期、旧佐倉城内に陸軍の歩兵連隊(歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊等)が設置され、佐倉は軍都となった。歩兵第五十七連隊は、アジア・太平洋戦争を戦い、やがて昭和19年(1944)フィリピンレイテ島において玉砕した。

*兵営の便所跡・・・便所の土台のみが残っている。P1070351
*訓練用の12階段・・・兵士が高所から飛び降りる訓練をするために造られた階段P107036012
☆夫婦もっこく(県指定天然記念物)P1070252_2
*このモッコクは、佐倉城の本丸跡にあり本丸西側の土塁に接して植えられている。説明文では、「樹高は11.6m、幹囲2.9mに達し、樹齢約400年以上と推定され、樹勢もきわめて旺盛である」と記されている。余計な事であったが実測したところ、「樹高19.5m、幹周①176㎝+②180㎝+③208㎝=564㎝(3本立)」である。通常のモッコクは低木のイメージが強いので、驚くほどの大きさである。もともと植えられた株数は1本と推測されるが、幹は3本に分れ立ち、このうちの2本が接合しているように見える。

*刃物で悪戯掘りした文字キズP1070254
*根元の太さP1070355_3
*佐倉城の築城については、「土井利勝が慶長16年(1611)から元和3年(1617)まで7年をかけて完成し、規模こそ小さくとも本丸等に、種々の庭樹を植え雄大な風格を示した」と伝えられているが、このモッコクは庭樹の一つであったと考えられている。

☆麻賀多神社の御神木:いちょう
旧佐倉藩の総鎮守で、古くから「まかたさま」とこの地方の人々に親しまれ、崇敬されてきた神社。御神木:大銀杏 樹齢800年以上。P1070290
*麻賀多神社についてはNO424を参照されたし。P1070371
☆佐倉武家屋敷
城下町佐倉の面影を残す土塁と生垣の通りに面して、「旧河原家住宅」(千葉県指定文化財)、「旧但馬家」、「旧武居家」の3棟の
武家屋敷が現在公開されている。江戸時代後期の建築で、佐倉藩士が暮らしていた。旧河原家は、市内に残る武家住宅の中で最も古いものとされ、佐倉の武士の生活様式を垣間見ることができる。P1070376



2017年6月11日 (日)

NO425、安房の国・鋸山乾坤山日本寺(ケンコンザンニホンジ)の見廻り

6月9日(金曜)、初夏のさわやかな風に誘われ校友会の日帰りバス旅行に参加し、安房の鋸山周辺の見廻りに出かけた。安房房総半島は外房・内房ともに同一県内とは言え、我が居住の下総アビコとはアクセスが非常に悪く、気軽に出向いて見廻りする地域とは云いづらいところであり、今回は良き機会であった。

行程:我孫子発⇒鋸山山麓駅(鋸山ロープウエーで山頂へ)⇒日本寺境内散策⇒鋸南保田IC⇒海鮮丼・浜焼きの昼食⇒崖観音(大福寺)⇒道の駅枇杷倶楽部⇒富浦IC⇒海ほたるSA⇒我孫子駅北口帰着

★鋸山(標高330m)は鋸の歯のような険しい?稜線で、昔から東京湾に入る船の目印とされていた。
室町時代から昭和57年(1982)まで、房州石(金谷石)と呼ばれる石材を切り出した石切場跡が残っている。
徒歩のほかロープウェーや自動車道(有料)も整備されており、年齢や体力を問わず誰でも楽しめる。また温暖な房総半島に位置しているため1年を通して登ることができ、東京湾をはさんで三浦半島をはじめ、富士山や大島を見ることができるそうな。
この日は、楽々のロープウェー(片道500円)で山頂駅まで4分。
*東京湾を隔てて久里浜港

P1070300
*鋸山山頂P1070303

*石切り現場跡の切通しP1070305
★日本寺(乾坤山日本寺)
日本寺は約1300年前、聖武天皇の勅詔を受けて、行基菩薩によって開かれた関東最古の勅願所である。鋸山の南側斜面10万坪余りを境内としており、大仏(薬師瑠璃光如来)、百尺観音像、千五百羅漢石像群などがある。天台宗、真言宗を経て徳川三代将軍家光公の治世の時に曹洞禅宗となり、今日に至っている。
日本寺の本尊は薬師瑠璃光如来。衆生の病苦を救う医薬の仏様で、左手に薬壺を持っているのが特徴である。
*百尺観音
高さ30.3m。戦死病没殉難者供養と交通犠牲者供養のために、6年の歳月をかけ昭和41年にかつての石切場跡に彫刻された大観音石像。P1070306
*地獄のぞき
高さおよそ100mの地獄のぞきからは、東京湾および房総半島、富士山等が見渡せる。P1070309
*石大仏(薬師瑠璃光如来)
高さ31.05m。正式名称は薬師瑠璃光如来。奈良東大寺大仏のおよそ1.8倍の高さを誇る日本一の石大仏。天明三年(1783)に大野甚五郎英令が27人の門弟と岩山を3年かけて彫刻したものが原型である。その後昭和41年に4年にわたって修復されたそうな。P1070322_2
*源頼朝との関係
源頼朝は石橋山の戦いに敗れた後、房州に逃れ再起を図った折に日本寺で武運を祈願し、自ら蘇鉄を手植えした。現在も大蘇鉄として境内に残っている。
*イワタバコ
湿った岩壁に着生し、花は美しいので山草として栽培もされる。葉がタバコに似るのでこの名がある。また若葉が食用にできる。まだ咲きはじめである。P1070319
*アブラギリ
西日本と中国に自生し、また栽培もされる。葉の形はキリに似る。花は6月頃咲き、5弁で白く径3 cmほど、円錐花序をなしよく目立つ。果実は円いさく果で6個の大きな種子を含み、秋に熟す。P1070328
*大福寺の磨崖仏観音堂
大福寺は、千葉県館山市船形にある真言宗智山派の寺院。山号は船形山。院号は普門院。境内には崖造りの観音堂があり、磨崖仏として十一面観世音菩薩が刻まれ、崖の観音と称される。P1070341


2017年5月22日 (月)

NO424、東日本一の大杉を御神木とする麻賀多神社~宗吾霊廟の見廻り

5月20日(土)、気温がぐんぐん上がり夏日となったこの日、樹木観察会のメンバー6名で、成田市台方にある天然記念物となっている御神木の大杉と鎮守の森樹木を見廻りした。

この日の行程:我孫子駅改札集合 8:46発→成田駅→京成成田→宗吾参道駅(出口2)→徒歩約40分→麻賀多神社→約15分→宗吾旧宅→約15分→宗吾霊廟→約10分→宗吾参道駅→我孫子

★成田 麻賀多神社
*今から千七百年余前、印旛国造(大和朝廷の地方長官)であった伊都許利命(イツコリノミコト)が、現在の地に麻賀多神社大神として崇め、以降近隣の麻賀多十八社の本宮として、また地元の鎮守様として広く崇敬されていたそうな。
なお、平安時代中期に制定された「延喜式」神名帳には、国幣社・麻賀多神社と記されている。往時勅使として大伴家持も参拝された。この由緒ある神社の境内の神秘さは多くの参拝者の感動を誘っている。

P1070089
*御祭神は稚産霊命(ワクムスビノミコト)である。古事記・日本書紀には、日本の国造りの神で、五穀の神様であり、産業を司る神として記されている(古事記では和久産巣日神と記されている)。 また、この神社の社紋は麻の葉をデザインされており、最近まで赤ちゃんの産衣に麻の葉を入れて健やかなる成長を祈願しており、お子様の守り神でもある。
伊勢神宮の内宮(天照大神)の姉神で、外宮(豊受大神)は子神と記されており、香取神宮の御祭神(経津主命フツヌシノミコト)と鹿島神宮の御祭神(武甕槌命タケミカヅチノミコト)は弟神である。P1070094
*麻賀多神社の大杉(県指定天然記念物)推古天皇の時代に植樹されたとされ、約1400年近くの樹齢を持つ東日本一の大杉である。P1070095
*麻賀多神社の大杉(県指定天然記念物)境内左奥にある、東日本一の大杉(御神木)は、樹齢千三百有余年、昭和十年、千葉県の指定記念樹第一号に指定された。P1070098
*麻賀多神社の大杉(県指定天然記念物)。古来より御神木には心霊が宿っていると言い伝えられ、延命長寿のご利益を授かることでも有名。現在はパワースポットとしても人気の場所となっている。P1070102
★宗吾旧宅
宗吾霊堂の西2kmに義民宗吾の生家の屋敷がある。宗吾(木内惣五郎)は承応2年(1653)佐倉藩の暴政による領民の困窮を、直訴により救った義民とされる。現在16代目といわれる木内家に宗吾佩用の刀・ほか関係古文書が多く保存されているが、一揆や直訴を行ったということを確認できる史料はない。P1070112

*妻子と決別の水杯に用いた椿井P1070105
★宗吾霊廟
宗吾霊堂には、重税に苦しむ農民を救うため禁止されていた将軍へ直訴し、処刑された佐倉宗吾(木内惣五郎)が祀られている。
*宗吾霊廟(東勝寺)P1070123
*霊廟本堂内部P1070121
*宗吾父子の墓P1070126
*直訴と処刑の物語
佐倉藩主堀田正信は厳しく税を取り立て、領民の暮らしは困窮した。名主たちは郡奉行や国家老に重税の廃止を求めたが拒絶され、さらに江戸に出て江戸藩邸に訴えても(門訴)取り上げられず、名主6人が老中に駕籠訴を行ったがこれも退けられた。
このため惣五郎は1人で将軍に駕籠訴を行った。『地蔵堂通夜物語』では承応2年(1653)とされ、上野寛永寺に参詣する四代将軍の徳川家綱に直訴したという。『堀田騒動記』では正保元年(1644)とされており、将軍は三代徳川家光になる。
直訴の結果、訴えは聞き届けられ、佐倉藩の領民は救われたが、惣五郎夫妻は磔となり男子4人も死罪となったそうな。
*ナギノキの花P1070128


2017年5月12日 (金)

NO423、結構な日光②、「世界遺産日光の社寺」の見廻り

「世界遺産日光の社寺」後編は、二荒山神社と輪王寺家光廟大猷院の見廻り報告である。

★二荒山神社
日光二荒山神社は奈良時代末、勝道上人が開いた下野国一之宮で、輪王寺と並んで日光山の中心となる山岳信仰の霊場。鎌倉時
代に弁攪により熊野三山信仰が導入され、神道と仏教が混交した形で発展し、徳川幕府によって本殿や社殿が造営されたが、明治の神仏分離令により二荒山神社となった。社殿や神橋などの建造物が重要文化財に指定されている。P1070040
*二荒山神社拝殿(重文)
拝殿は、入り母屋反り屋根造り黒漆塗りの銅瓦葺きで日光山内の建造物としては珍しく彫刻や文様などの装飾が一切ない造りと
なっている。P1070042
*御神木
境内には、杉の大木が随所にみられるが、縁結びの御神木、夫婦杉、三本杉、親子杉などさまざまである。
・右は夫婦杉、左は親子杉P1070041・縁結びの御神木(杉の木に楢が宿木になったもの)P1070043
*神橋(重文)
日光山内の入口、大谷川に架かる木造りの赤い橋。その昔、深沙王が2匹のヘビを放ち絡み合った末に橋になったと云う伝説をも
つ。現在の橋は、明治37年(1904)に寛永13年(1636)の朱色塗の橋形を忠実に再建したもの。P1060973_2
★輪王寺大猷院
徳川三代将軍家光の霊廟(墓所)。「大猷院」とは家光の法号であり「死後も家康(東照大権現)にお仕えする」と云う家光の
遺言を受け、四代将軍家綱が建立した。東照宮に比べて規模が小さく華やかさを抑えた配色で建てられたそうな。大猷院の建築様式は神仏混交の東照宮に比べると仁王門、拝殿 本殿、奥院にいたる配置は仏教の世界観を表している。P1070044
*仁王門(重文)
大猷院の表玄関で阿吽が仁王門を守る朱塗りの八脚門。身の丈3.2mの密迹金剛(みしゃく)と那羅延金剛(ならえん)の仁王像
が睨みをきかせる。P1070045
*夜叉門(重文)
承応2年(1653)大猷院に造営された門であり装飾がすべてボタンの花で統一され別名「牡丹門」と呼ばれ、黒漆と金を基調にして
華麗である。東照宮でいえば陽明門にあたるのが夜叉門。P1070058門には東西南北を表す色の4体の夜叉像が祀られ、青色の烏摩勤伽(うまろきゃ)は破魔矢発祥の仏様。P1070056
*唐門(重文)
承応2年(1653)に造営され、屋根の前後の軒を唐破風形となっている。P1070051
*大猷院拝殿/大猷院本殿(国宝)
大猷院本殿・相の間・拝殿は、承応2年(1653)に造営され、一棟に連なった建物で「権現造り」と呼ぶ。拝殿は金箔が眩しく別名
「金閣殿」と呼ぶそうな。天井には140の龍が描かれているそうな。P1070052・本殿P1070053
*皇嘉門(重文)
承応2年(1653)に造営された「竜宮造」様式の門。極彩色の装飾は 竜宮城のようで別名「竜宮門」とも呼ばれている。本殿の右
手奥にある楼門でその奥が非公開の家光の墓所の奥の院がある。P1070054


2017年5月11日 (木)

NO422、結構な日光、「世界遺産日光の社寺」の見廻り

5月10日、関東建築探訪の会メンバーで世界遺産となった日光の社寺を見廻りした。此処で云う社寺とは、輪王寺、東照宮、二荒山神社、大猷院の四社寺である。世界遺産となったからか、多数の観光客で混雑し、日本人ばかりでなく国際色豊かな人々で賑わっていた.
観光ポイントも多数あり、見廻りの報告も何度かに分けて報告したい。
予報では、この日は関東は小雨模様であったが日光地域は雨粒に襲わられることもなく快適であった。P1060974

★輪王寺
「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称である。創建は奈良時代。近世に徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた。国宝、重要文
化財など多数の文化財を所有する。開創は勝道上人と伝承されている。 本堂(三仏堂)に3体の本尊(千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音)を安置する天台宗寺院であり、延暦寺や寛永寺とともに天台宗三本山の一つである。

*日光の開山の祖、勝道上人像 
日光山は下野国出身の奈良時代の僧・勝道上人により開創されたと伝承されている。勝道上人についての史実はほとんど残って
いないそうな。P1060976
*天台宗三本山の一つ「日光山輪王寺」
輪王寺の本堂(三仏堂)は東日本では最も大きな木造の建物で、平安時代に創建された全国でも数少ない天台密教のお堂。現在
の建物は、正保2年(1645)徳川三代将軍家光によって建て替えられた。
*日光山輪王寺三仏堂 (重文)
三仏堂には、日光三社権現本地仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)という三体の大仏(高さ7.5m)と、東照三社権現本地仏
(薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来)の、2組の三尊仏が本尊として祀られている。このため三仏堂とも呼ばれるそうな。
現在は「平成大修理」で東日本最大の木造建築の大伽藍を覆う「素屋根(すやね)」が第一段階として完成。地上26m(ビルの7
階に相当)には「天空回廊」があり、修理現場を見学できる。P1060977
*金剛桜 
三仏堂の前には、推定樹齢500年という、天然記念物に指定されている山桜の「金剛桜」があるが、今年の花期は終わっていた。P1060979

★日光東照宮
日光東照宮は、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現を祀る。日本全国の東照宮の
総本社的存在である。かって、全国で500社~700社を超える東照宮が造られたが、明治維新の廃仏毀釈により現存するのは約130社とされる。
日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。金地院崇伝の日記には「遺体は久能山に納め、一周忌が過ぎた
ならば、日光山に堂を建てて勧請し、神として祀ること。八州の鎮守となる」と残されている。「八州の鎮守」とは、日本全土の平和の守り神である。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたそうな。

*東照宮参道(石鳥居以内は重文)P1060989
*石鳥居(重文)
石鳥居は元和4年(1618年)に九州の黒田藩主黒田長政により奉納された。高さ9m、太さ3.6m(周長)、柱の間隔が6.8mで、京都八坂
神社・鎌倉鶴岡八幡宮の鳥居と日本三大鳥居の一つだそうな。P1060990
*五重塔(重文)
この五重塔の免震機能は「東京スカイツリー」の地震制振システム(心柱制振)と同様である。悲惨な記憶として残る「東日本
大震災」の時も、この日光東照宮の五重塔は損傷がなかったそうな。これはつまり、マグニチュード9.0という振動に耐えたことになる。P1060993
*表門(重文)
東照宮最初の門で、左右に仁王像が安置されているところから仁王門とも呼ばれる。P1060995
*神厩舎・三猿 (重文)
神厩舎は、ご神馬をつなぐ厩。昔から猿が馬を守るとされ、長押上には猿の彫刻が8面あり、人間の一生が風刺されている。中で
も「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻が有名。P1060997
*パワースポットの鳥居
運気が集中している場所であると言われているそうだが・・・P1070005
*本地堂の鳴竜(重文)
日光東照宮の本地堂(薬師寺)の天井は「鳴竜」と呼ばれる。34枚の檜の板に描かれた6m×15mの鳴竜の天井画が有名で家康
公を薬師如来の化身としたことから薬師瑠璃光如来像が祀られている。P1070010
*逆紋の回り灯籠
オランダ東インド会社から奉納された八角形の回り燈籠は三つ葉葵紋が逆で「逆紋の回り灯籠」 と呼ばれている。P1070014
*西洋鉄燈籠 
伊達政宗がポルトガルから鉄材を取り寄せて造らせたという二基の南蛮鉄燈籠。P1070006
*陽明門(国宝)
日本を代表する最も美しい門で、宮中正門の名をいただいたと伝えられる。いつまで見ていても見飽きないところから「日暮の
門」ともよばれ、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500以上の彫刻がほどこされている。P1070007
*陽明門の逆さ波型 
陽明門には12本の柱がありすべてグリ紋が施されている。グリ紋様は曲線の文様で、 陽明門背面の西から二本目の柱だけ一本が
逆さになっている。「魔よけの逆柱」と呼ばれ「満つれば欠ける」の諺により不完全な柱を加えて魔除けにしたそうな。ただ今、修理中。P1070017
*唐門(国宝)
全体が胡粉で白く塗られ、「許由と巣父(きょゆうとそうほ)」や「舜帝朝見の儀(しゅんていちょうけんのぎ)」などの細か
い彫刻がほどこされている。P1070023
*御本社(国宝)   
本殿・石の間・拝殿からなり、東照宮の最も重要な建物。例祭をはじめ祭典が斎行される。また拝殿左右には、「将軍着座の間
」・「法親王着座の間」がある。 拝殿は撮影禁止

*眠り猫の彫刻(国宝) 
左甚五郎作と伝えられる。牡丹の花に囲まれ日の光を浴び、うたたねをしているところから「日光」に因んで彫られたとも言わ
れ、これより奥宮に通じる。P1070025
*奥宮(重文)
拝殿・鋳抜門・御宝塔からなる御祭神家康公の墓所。P1070033
*宝塔
奥社拝殿の裏手にある奥社宝塔は家康公の墓所で高さ5m。元和8年(1622年)に木造で創建されたが、天和3年(1683年)に現在の鋳
銅製に改められたそうな。P1070031



2017年5月 4日 (木)

NO421、筑波山系宝篋山初夏の見廻り

5月3日(憲法記念日)、茨城県なのか「つくば市」か定かではないが、やけに力を入れてアピールしている宝篋山(ほうきょうさん)を見廻りした。
天気は上々で少し歩くと多量に汗をかく夏日であり、見廻りには絶好の日であった。とは言え、登山口までの道路は連休の真っ最中で渋滞、裏道を抜けたどり着いたが駐車場は満杯状態。難儀したが11時20分頃にようやく見廻り開始となった。

*宝篋山
宝篋山は、茨城県つくば市の標高461mの山である。筑波連山の支峰の一つで、地元では山頂に宝篋印塔(鎌倉時代中期頃造立)が建立され宝篋山と呼ばれる。麓にある小田城(国の史跡)に関連する城郭跡も残されている。
P1060918461_2
この日の行程時間は省略するが、本来の予定コースタイムを記する。
出発⇒小田休憩所10:00着~10:10出発→五輪塔10:30→太郎こぶし休憩所11:00→急登攀→元禄こぶし→コース合流点12:00→宝篋山山頂12:15→宝篋城跡広場12:30~13:15→幸福の門14:00→富岡分岐点14:30→小田休憩所14:50着⇒帰路

 

宝篋山は、春はヤマツバキ・コブシ・山桜・フジ・ツツジなど多彩な花々で飾られ、夏は新緑、秋は紅葉と一年中飽きさせない山だそうな。遺跡や文化財も数多く点在し、山麓にはかつては多くの寺院が存在したが現在は廃寺となっている。小田城を中心として周辺には多くの史跡や文化財が残されている。

 

*石造り地蔵菩薩
俗に「湯地蔵」と言われ、安産と乳が出るようにという祈願のために、小田の人々によって守られてきた地蔵尊だそうな。
P1060920
*石造五輪塔
この地にあった極楽寺(鎌倉時代奈良西大寺の僧忍性が教えを説いた寺)の五輪塔。極楽寺奥ノ院(戦国時代に焼失)にあったという石造遺跡である。
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*沢沿いに群生している「ニリンソウ」P1060926
*辛夷の大木「太郎こぶし」のある休憩所P1060928
*木五倍子(キブシ)…雌雄異株の落葉低木。花は3-5月の葉が伸びる前に淡黄色の総状花序をつけ、長さ3-10cmになる花茎は垂れ下がるのでよく目立つ。和名は、果実を染料の原料である五倍子(ふし)の代用として使ったことによる。むかしお歯黒として使われたそうな。P1060930
*ウワミズサクラ…まだ白い花をつけている。花は5月頃。長さ10cmほどの白い総状花序が目立ちブラシのように見える。P1060931
*ヤマツツジP1060933
*辛夷の巨木「元禄こぶし」P1060934
*ジュウニヒトエ(十二単)P1060938_3
*山頂の宝篋印塔(後方に筑波山が見える)
宝篋印陀羅尼という呪文を収めた塔。日本ではふつう石塔婆の形式の名称とし、方形の石を下から基壇・基礎・塔身・笠・相輪と積み上げたものをいう。のちには供養塔・墓碑塔として建てられた。
P1060944
*宝篋山城跡P1060946
*幸福の門(謂れや意味は不明)P1060947
*下山途中に樹木に絡み付いて咲いていた藤の花P1060950


2017年5月 2日 (火)

NO420、栃木県益子町坂東20番札所西明寺の見廻り

4月30日(日)、益子町にイチゴ狩り農園があり、糖度が高い「とちおとめ」の完熟ものを食べ放題、時間無制限で食べることができるとの事で、連休最中遠出をした。益子は益子焼・日下田藍染め家などで良く知られている里であるが、坂東三十三観音札所20番の西明寺がありこの期会に見廻りをした。

*時間無制限食べ放題千円のイチゴ狩り完熟「とちおとめ」Dsc_0043
*日下田藍染工房…200年以上続く藍染めの甕場で、72個の藍甕があり栃木県の文化財に指定00200001
*西明寺本堂
西明寺は、栃木県芳賀郡益子町にある真言宗豊山派の寺院。山号は独鈷山、院号は善門院。本尊は十一面観音で、坂東三十三
観音第20番札所である。住職は元国立がんセンター医師の田中雅博氏(1946年 - 2017年3月21日)であった。
「土佐日記」で知られる紀貫之の後代、紀一族が益子に移り住み、西明寺の地「権現平」に紀貫之を祀ったことから始まる。
その紀貫之夫妻の像が本堂に安置されておるそうな。本堂厨子、三重塔、楼門は国指定重要文化財であり、ユニークな「笑い閻魔」で親しまれている閻魔堂がある。Dsc_0080
*西明寺三重塔(国指定重要文化財)
和様、折衷様、唐様の三様式。板屋根銅板葺き。優美でそれぞれの建築様式の特徴をよく発揮している。塔はあらゆる人をあ
まねく等しく受け入れる仏の智慧のシンボルだそうな。心柱名には天文6年の墨書あり。Dsc_0083_3
*西明寺楼門(国指定重要文化財)
純唐様式。入母屋造の茅葺き。礎盤の上に立てられた柱は32角造りで金剛柵の中に阿形(右)と吽形(左)の仁王(金剛力
士)像が配置されている。背面腰組下の蟇股の形態は特異で室町時代の特徴をよく表わす。Dsc_0057
*閻魔堂の「笑い閻魔」
堂内には閻魔大王、善童子、悪童子、奪衣婆、地蔵尊の五体の仏像が並んでいる。この閻魔は笑っている。
閻魔の横には地蔵菩薩が立っているが、閻魔はそのお地蔵さまの化身といわれ、他人のためなら地獄にも行くお地蔵さまは決
して怒らずいつも笑みを浮かべている。よって、その化身である閻魔は当然に笑っているのだそうな。笑い閻魔は地獄で苦しむ人のためにも笑い続けているそうな。Dsc_0066_2
*閻魔大王の隣りにすごい形相の奪衣婆Dsc_0067
*天然記念物 「コウヤマキ」
常緑高木、葉は厚く二葉が側面で合着し、雄雌同株。和名は紀州高野山に多いことからこういう。樹皮は「まきはだ」といっ
て桶類の漏水止めに使われ、材も耐水性に強く風呂桶として最良。承元3年(1209)土御門天皇の御代宇都宮景房が本堂再建の記念として植えられたと伝えられて、北関東最大のものである。Dsc_0072
*天然記念物「西明寺の椎林叢」
スダジイは常緑高木。葉は厚い革質で裏面は淡褐色。花は晩春、雌雄同株、虫媒。果実は長さ1.5㎝位で総包の中に包まれ成熟
すると3裂し食べられる。参道の階段の両側とその周辺にあり、目通り周囲2m以上のもの19本が指定を受けている。Dsc_0055


2017年4月20日 (木)

NO419、狐の尾曳伝説の館林城跡とつつじが岡公園の見廻り

4月19日(水曜)、群馬県館林をグルメの仲間と日本一美味い「うどん」を食し、館林城跡とその周辺を見廻りした。

群馬県の形が羽を広げた鶴のように見えるため、上毛かるたでは「ツル舞う形の群馬県」という札があり、群馬県人は地域を
さすのに鶴の一部に見立てた表現を用いる。県東南部に位置する館林市は、ツル舞う形の「ツルの頭」に位置する。

中世には赤井氏、長尾氏、由良氏などが館林を本拠地とし、天正13年(1590)に徳川四天王の一人である榊原康政が館林城に
入り城下町を整備した。第五代将軍徳川綱吉が城主だった時期(25万石)もあるが、現在は城跡が僅かに残るのみである。
ツツジの名勝つつじヶ岡公園や、分福茶釜の物語で知られる茂林寺、館林美術館、製粉ミュージアムなどの観光地がある。

*製粉ミュージアムの本館
明治創業期の洋風木造建築。日清製粉創業の地にある。製粉に関する展示がされ、本館には美智子妃殿下の実家・正田家の歴
史やコレクションも展示されている。P1060801
*青龍神社(青龍の井戸)
この井戸は延宝年間に突然清水が噴き上がり、中から女官姿の「青龍権現」が姿をあらわしたことから「青龍の井戸」と呼ば
れるようになったそうな。綱吉の生母「桂昌院」は井戸に「青龍権現社」を再建し、綱吉も五代将軍になると10石の朱印地を寄進した。小さな神社であるが入口には「葵の御紋」が見られる。P1060811
*館林城跡の石碑
城跡としての面影はほとんど見られない。城の建物の大半は明治7年に焼失した。現在は本丸・三の丸などの土塁の一部が残さ
れて、三の丸に土橋門が復元されている。P1060817
*土橋門
館林城は城沼を自然の要害とした平城で、別名を「尾曳城」という。城沼を城の東側外堀とし、台地を区切って城の中心であ
る本丸・二の丸・三の丸を置き、これを囲むように外郭・惣曲輪を構え、西方の台地に城下町を配置し、すべてを土塁や堀で囲んでいたそうな。P1060818
*旧秋元家別邸
この建物は明治時代後期に旧館林藩主秋元家別邸として建てらた。木造平屋建入母屋瓦葺き、庭園側がほぼ全面ガラスの引き
戸で構成され、品位のある印象を受ける。昭和5年に東京駿河台の秋元家庭園から移築された石燈篭や庭石もある。P1060835
*尾曳稲荷神社
尾曳伝説の神社。ある時、赤井照光が童子らに捕えられた孤児を救った。その夜に老翁が顕れ子狐の礼を述べ、館林が要塞堅
固の地と説き、尾を曳いて城郭の縄張りを先導した。照光はこれによって築城しその名も尾曳城と号し、当神社を奉祀したそうな。P1060869
*田山花袋の旧居P1060878
*鯉幟の里(鶴生田川)P1060826
*躑躅ヶ丘公園のツツジ(花山姫)P1060852
*宇宙つつじ
平成6年に打ち上げられたスペースシャトル「コロンビア」宇宙飛行士向井千秋さんは館林出身。シャトルに搭載されたヤマツ
ツジが「宇宙つつじ」として生育している。P1060837


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