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2017年11月18日 (土)

NO448、千葉市花見川区検見川の巨樹見廻り

晩秋ではあるが、寒波の到来で本年においては最も寒いと予報された11月17日(金)、樹木観察会メンバーで検見川地区の巨樹の見廻りを実施した。今年初めてのダウンブルゾンを着込んだが、快晴の無風の見廻りで汗ばむほどであった。

広徳院
本寺院は検見川の西北側にあり、覺王山中臺寺と号し宝亀五年(775)の建立で、真言宗。
*広徳院のイチョウ
P1080683*広徳院のケヤキP1080684
検見川神社
検見川神社誌によると、貞観11年(869)、全国に流行した疫病を治めるために、嵯峨の地に素盞嗚尊を祀ったのが始まりとされている。その後承平4年(934)に社殿が建立され、さらに文禄年間に現在地に遷されたという。祭神は、素盞嗚尊、宇迦之御魂神、伊弉冉尊の三神を祀る。
*検見川神社参道のケヤキP1080685*タブノキには梟の彫物P1080441
東大検見川総合運動場
この辺り落合遺跡といわれ、昭和22年の発掘調査では3隻の丸木舟と9本の櫂が発見され、弥生時代の舟だまりのあったところと推測されている。植物学者の大賀一郎博士は、昭和26年に市民と発掘調査し、女子中学生が1粒のハスの実を発掘、翌年花を咲かせた。調査の結果、2000年前のハスの実と分かり大賀ハスと名付けられた。
*大賀ハス発掘の沼地跡P1080689
子安神社
神社の由緒書によると、延暦年間(782~806)この地を支配した豪族の古墳を御神体とし、五穀豊穣の神として創立した。のち奇稲田姫命を勧請して安産の守護神として祀ったとある。
(巨樹=タブノキ3本、スダジイ2本、ムクノキ2本、ケヤキ本、カヤノキ1本、その他多数)
*子安神社のタブノキP1080442*子安神社のスダジイと鎮守の森P1080446
真蔵院
真言宗豊山派。大同元年(806)の開基と伝えられ、元禄年間(1688~)に観海上人により中興開山したといわれている。本尊は、千葉氏一族・武石三郎胤盛が母の菩提を弔い祀った地蔵菩薩。境内にある板碑は、高さ3.31mの武蔵型板碑で永仁2年(1294)と刻まれ、千葉市の文化財指定。胤盛の守り本尊を祀る浪切不動堂は近在の船頭衆の信仰を集めたそうな。 
(巨樹=タブノキ・スダジイ・イチョウ・シロダモ等)
*真蔵院と背後の鎮守の森P1080447*真蔵院の手入れされたイチョウP1080693
三代王神社
神社の創建年代等については不詳であるが、祭神は天種子命。千葉氏一族・武石胤盛が帰依したという。下総三山の七年祭りでは、三代王神社が産婆役で参加する神社。
(巨樹=タブノキ2・スダジイ3・ケヤキ・モチノキ)
*三代王神社のスダジイP1080455*三代王神社のケヤキと鎮守の森P1080454*三代王神社のモチノキP1080459
JR幕張駅側の手打蕎麦屋「野の茶」で鴨汁せいろとお燗の純米地酒Dsc_0002_3

2017年11月11日 (土)

NO447、松尾芭蕉が奥の細道の旅に出立した千住宿の見廻り

11月10日(金)木枯らしが既に吹いたようだが、晩秋の暖かさに浮かれ、松尾芭蕉が奥の細道の旅へと出立したと云われる千住の街並みを見廻りした。
江戸時代の千住は所謂4宿の一つで、5街道の内、日光街道・奥州街道共通での江戸から最初に旅人が使う宿場町だった。品
川宿・内藤新宿・板橋宿より宿屋や商家が多い街として賑わい、粋な旦那衆が花街で遊んだり芸術家を支援したまちであった。それにいまだに銭湯が8軒もあり、赤提灯の飲み屋街が幾筋もあり夕刻には「呑み横」や「毎日通り呑み街」などには酔っ払いが溢れてるそうな!

*南千住駅前の松尾芭蕉像
彫刻家平野千里氏によって製作され、平成27年3月に、奥の細道矢立初めの地千住を象徴する像として建立された。
 矢立初
めの句「行春や鳥啼き魚の目は泪」P1080564
*素戔雄神社
荒川区で最も広い氏子域を持つ鎮守。P1080573*文政3年(1820)千住宿の文人らによって建てられた芭蕉の矢立初めの句を刻んだ句碑がある。P1080578
*荒川ふるさと文化館前の橋本佐内の墓「旧莢堂」P1080583
*日枝神社・山王清兵衛
清兵衛は千住の歯神として祀られている。歯痛に耐え切れずこの地で切腹した武士である。P1080585
*熊野神社
創建は永承5年(1050)。源義家が奥州攻めに向かい渡河を熊野大社に祈願し勧請したとつたわる。
大橋を架ける時には、都度橋の残材で社殿の修理を行なった。これが慣例となり大橋の架け替え毎に社殿修理が行われたそ
うな。P1080589
*千住大橋
文禄3年(1594)徳川家康が江戸入府した後、隅田川に初めて架けた橋。架橋工事は困難を極めたが熊野神社に祈願したと
ころ完成した。大橋の架け替え毎に熊野神社社殿修理が行われた。
旅を愛した松尾芭蕉も大川を船で上り、千住で下船し、ここから旅立った。
最後の将軍徳川慶喜の水戸への旅立ちの地となった(真山青果「将軍江戸を去る」)。
現在の鋼橋は昭和2年(1927)、増田淳の設計により架け替えられた。ブレースドリブダイドアーチ橋の最古の例であるそうな。P1080593
*大橋公園の奥の細道矢立初めの地P1080601
*足立市場・芭蕉像
足立市場の側に筆を持つ芭蕉の石像がある。
足立市場は都内唯一の水産物専門の市場で、通称「千住の魚河岸」と呼ばれている。また日本に一つしかない長ねぎ専門の卸売市場でもあ
り、此処で選び抜かれた葱を「千寿ねぎ」と呼び、この葱を使った食べ物が「千寿ねぎま鍋」で、江戸時代からの千住名物である。(千住ねぎではなく千寿ねぎである)P1080602
*千住宿歴史プチテラスの芭蕉句碑
   「鮎の子のしら魚送る別れ哉」P1080608
*千住3丁目の大橋眼科建物(時代を感じさせるドイツ風の建物)P1080610
*千住宿本陣跡・見番横丁の説明板(千住3丁目)
現在は何も残っていないが、説明板だけがある。見番とは所属する芸者の客席への取次や料金精算を行う事務所である。P1080613
*絵馬屋・吉田家(当代で8代目、絵馬や地口絵、凧絵などの手書き絵馬屋)P1080626
*横山家住宅(旧地漉紙問屋、家屋は江戸時代後期の建築で商家の面影が残る)P1080624
*千住本氷川神社旧社殿(旧社殿向拝は、千鳥破風・唐破風の二重破風を形成し、貫や梁には龍や鳥類の彫刻がされているP1080616
☆千住の由来
千住の由来は、荒川から引き揚げられた千手観音さまに因むという説や、戦国の領主であった千葉氏が住んだことにちなむ
など諸説があり、定かではない。

2017年11月 5日 (日)

NO446、平将門怨霊の七つ星地点の見廻り

都心の紅葉がボチボチと始まってきた暖かな秋日の11月4日(土)、トランプ米大統領の長女イヴァンカ補佐官の来日中で、警護のやかましい都内ではあるが、将門怨霊の地と云われる処を見廻りした。パワースポットとも騒がれてゐるそうであるが、勝手な理屈付けの地点もありその真偽のほどは全く定かではない。こじ付けであろうと覚えるが、この将門怨霊の地点を結ぶと北斗七星が描かれるなどと勝手な歴史解説もあり、見廻りするには価値ありと出掛けた次第である。なお、将門怨霊物語は日本3大怨霊物語(菅原道真、崇徳天皇)のひとつ。

*鳥越神社P1080525平将門の首が京都から郷里の我孫子郷日秀地区へ向かう際、上空を飛び越えたという言い伝えがある神社。
平安時代、奥州討伐に向かった源頼義・義家親子が、白鳥が飛び越えるのを見て浅瀬を知り、無事に大川(隅田川)を渡れ
たことから鳥越大明神の名になったと伝えられている。千貫神輿は有名である。P1080527
*兜神社P1080532_2将門を討った藤原秀郷(俵藤太)が将門の首を京都に運ぶ際、その兜を塚に埋めて供養した場所が「兜石」で、明治時代に証券取引業界の守護神として神社が創設されたそうな。P1080534*兜神社の兜石P1080536
*将門の首塚P1080537京都の都大路に晒された将門の首が、3日目に突如夜空に舞い上がり、故郷の下総に向かって飛び去ったという伝説がある。その途中でここ大手町に落ちたと云われる。昭和元年に大蔵省が塚を埋立てたところ大臣をはじめ担当役人が次々と怪死したことから将門塚破壊の祟りだとされた。またGHQが区画整備しようとしたが墓石の前でブルが横転し運転手が死亡した事故が起きた。その後はこの地には手が付けられておらず塚は鄭重に保存されている。P1080543
*筑土八幡神社P1080544京都にさらされた将門の首は首桶に納められたが、その首桶を津久戸明神社にご神体として祀ったとされる。その後何度か移転を繰返し現在地に移ったとされている。P1080547
*神田明神P1080550正しくは神田神社といい、天平2年(730)現在の将門塚近辺に創建したのが起源である。その後続発した天変地変が将門の祟りによるものと畏怖されたため、将門の供養をして神田明神に奉祀した。神田明神の主要祭神の一柱は平将門である。江戸城の鬼門を鎮護する神社としても有名である。P1080552
以下の2ポイントは、今回は省略
*稲荷鬼王神社:歌舞伎町2丁目(将門の幼名が鬼王丸と云った)
*鎧神社:北新宿3丁目(将門の鎧を埋めたとの言伝え)

2017年11月 3日 (金)

NO445、印西市、栄福寺薬師堂と松虫寺の見廻り

文化の日の11月3日、千葉県下で最古の木造建築物である印西市の国重要文化財「栄福寺薬師堂」と同じく重文「木造七仏薬師如来像」のある松虫寺の見廻りをした。

☆栄福寺薬師堂
栄福寺は正式名は角竜山医王院栄福寺、天台宗で行基による開基と伝えられているが、その沿革は明らかではない。境内は神仏混合の名残りが現在まで残り熊野神社が祀られている。今年「薬師堂内」の厨子の中に安置されている秘仏のご本尊が33年ぶりに御開扉され、特別に11月12日には拝むことができるそうな。P1080473
*国指定重要文化財の「栄福寺薬師堂」P1080486「栄福寺薬師堂」は、正面、側面ともに3間の真四角な単層の堂である。その屋根は、茅葺寄棟造(かやぶきよせむねづくり)。「寛正7年(1466)6月柱立 応仁3年(1469年)霜月上棟、文明4年(1472年)2月成就」との棟札の墨書銘があり、室町時代中期の建物である。P1080480
*鮮やかな朱塗りの薬師堂軒下に地域の人々の信仰心の深さP1080484
*梵鐘の無い鐘楼。その理由は不明。P1080475
*寺の境内に「熊野神社」が共存。P1080476
*熊野神社の前には榧の巨木P1080479
*ビンズル大師は、左甚五郎の作と伝わるが???P1080483
*祭礼の幟旗が立てられ、33年ぶりに御本尊薬師如来の御開扉P108049033
☆松虫寺
松虫寺は正式名を摩尼珠山医王院松虫寺、真言宗の寺。創建は奈良時代の天平15年(743)、聖武天皇が僧行基に命じて創建されたと伝えられている。聖武天皇の皇女松虫姫(不破内親王)が重い病を患われ、夢のお告げにより下総に下向し薬師仏に祈り重患平癒した。喜ばれた天皇が行基に命じて七仏薬師を謹刻すると共に一寺を建立し、松虫寺と名付けられたそうな。P1080495
*寺の入口に聳え立つスダジイの巨木P1080498
*仁王門、享保3年(1718)の建造P10805003
*松虫寺本堂は慶応元年(1865)の建造、本堂内には阿弥陀如来、不動明王、松虫姫尊像をお祀りする。P108051012
*松虫姫神社P1080518
*鐘楼P1080521
*七仏薬師瑠璃光如来(国重文)「木造薬師如来座像1体、立像6体」
七仏薬師は全国的にみても珍しく、この松虫寺と滋賀県の鶏足寺だけである。カヤ材の一木造で、像高は中尊坐像が54.3㎝、立像はいずれも38㎝の小像群で平安時代末期に造像された。この仏像は、33年に一度御開帳を迎える秘仏。直近の御開帳は2012年、次回は2045年。17103118510659f8478ac2b36_l1
*姥塚
姫と共に下総に下向した乳母杉自は、村人を集め文字の読み書きや養蚕を伝え(関東の養蚕の祖といわれる)、この地に残ったそうな。Ubazuka1


2017年11月 2日 (木)

NO444、南紀白浜・田辺、南方熊楠記念館・南方熊楠顕彰館の見廻り②

前回のNO443に引続き、27日から29日まで紀伊白浜・田辺の地をうろつき「智の巨人・熊楠」の気配に触れる見廻りをした。

第2弾の写真と簡単なコメントである。

☆世界遺産となった田辺市の闘鶏神社
創建は允恭天皇(いんぎょうてんのう)8年(419)、熊野権現を分霊、勧進。正式名は新熊野権現社という。源平合戦の折
、源氏と平氏の双方より熊野水軍の援軍を要請され、どちらに味方するかの神意を確認するため、神社本殿の前で赤を平氏、白を源氏に見立てた紅白7羽の鶏を闘わせたと云う鶏合わせの神事が伝えられている。
御祭神は天照皇大神・伊邪那美命・伊邪那岐命ほか。

*闘鶏神社本殿Dsc_0039*御神木の大楠(樹齢約1200年) 横・縦Dsc_0029Dsc_0032_2*弁慶と熊野水軍湛増の像(湛増は弁慶の父と云われている)Dsc_0036*闘鶏神社の児童公園にある大楠(樹齢約800年)Dsc_0042
☆*日本第一知恵の神、蟻通神社(蟻を使って法螺貝に糸を通した知恵の神の由来)Dsc_0049*蟻通神社の霊樟Dsc_0052
☆*弁慶所縁の八坂神社00450001*弁慶の腰掛岩00480001
☆*田辺NTTビルの熊楠像壁画(こんな所にも熊楠信仰?)00430001ntt_2
☆南方熊楠顕彰館(室内資料の写真撮影禁止)Dsc_0044*南方熊楠邸Dsc_0045*南方曼荼羅00390001_2



2017年11月 1日 (水)

NO443、南紀白浜・田辺、南方熊楠記念館・南方熊楠顕彰館の見廻り①

本年は特別に台風が多い訳ではないが、何故かsa-sanが出かけようと計画したその日前後に、台風による悪天候に見舞われて中止や延期になる事が多く、精神的にも肉体的にもストレスが積もり重なっている。
本年最後の大型台風22号が先週27日辺りから列島の天気予報で姦しく騒がれ、中止すべきか迷ったが、手配したチケットを解約するのも面倒で27日から出立し、2泊して29日まで紀伊白浜・田辺の地をうろつき「智の巨人・熊楠」の気配に触れる見廻りをした。

2泊しての台風の最中の見廻りとは言え、備忘記録は多く、時間経過とともに忘れ去る事項は更に多く、スマホでの写真記録を解説なしでボチボチと何回かに分け掲載したい。

*白浜、南方熊楠記念館入口00310001
*白浜、入口に立つ昭和天皇御製の石碑
 「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」Dsc_0024
*記念館入口風景(館内は展示資料など撮影禁止)00340001
*熊楠の肖像画Dsc_0026
*若き日の熊楠の肖像写真00350001


2017年10月 9日 (月)

NO442、信州湯田中温泉郷の見廻り

10月6日~7日(土)、元勤務先の愉快な仲間との一年ぶりの温泉旅行会で、信州湯田中温泉に行き近辺の見廻りをした。天気は秋晴れの快晴とはならずもう一つで残念ではあったが、現役の仲間や転職して活躍している仲間との愉快な語らいと、熱めの温泉と、日本酒痛飲で楽しく過ごした2日間であった。(かっての三洋電気社「ナショナル発電ランプ」の看板に出会ったが、思わず脱帽し最敬礼をした・・・感無量)

*湯田中温泉穂波温泉通りのゲート
湯田中温泉は長野県下高井郡山ノ内町にある「湯田中渋温泉郷」と呼ばれる温泉郷。泉質は塩化物泉・硫黄泉の2つ。

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*ひなびた手打蕎麦屋にあった吉永小百合のサイン(45年前のもの=昭和47年)1507358393286
*林檎畑の真っ赤なりんごDsc_0114_4
*斉藤茂吉の歌碑(湯田中の河原にたてば北側ははつかに白し妙高の山)P1080403
*湯田中共同湯処・大湯(町衆が掃除中)
共同浴場は大湯、千代の湯、弥勒の湯など9軒存在。大湯は、日本温泉協会「共同浴場番付」西の横綱の道後温泉、東の横綱に番付られる。
湯田中温泉は別名「養遐齢(ようかれい)」と呼ばれている。遐齢とは健康で長生きできる霊験あらたかな温泉であるとの意。P1080406
*渋温泉
渋温泉は長野県下高井郡山ノ内町にある「湯田中渋温泉郷」と呼ばれる温泉郷。石畳の道に木造建築の旅館が並ぶ。また外湯巡りが有名で共同浴場は9軒、一番湯・初湯から九番湯・大湯まである。伝説によれば1300年前に行基が発見したとされる。武田信玄の隠し湯のひとつで戦いで傷ついた兵士を療養させた場所である。

*温泉開源は行基上人(行基菩薩)P1080411
*渋温泉旅館金具屋
昭和11年建築。2003年に「斉月楼」と「大広間」が、国の登録有形文化財に認定された。木造四階建は建設が禁止となり、新規に旅館営業は認められない建物で、宿泊できる宿は残念ながらほとんどなくなった。当館の説明文によると「千と千尋の物語」とは関係ない建物だそうな。P1080409
*渋温泉九番湯大湯の鉄舟書「楽快湯」
この九番湯に500円の入浴料を支払って入浴したが、火傷する位の高温の湯であった。P1080424
*自動車修理工場に飾られた、かっての三洋電気社「ナショナル発電ランプ」の看板。感無量。P1080433

バスでの帰宅途中、小布施に立ち寄り自由散策時間に土産用に栗羊羹・栗菓子など大量に買い込をした。残念ながら岩松院の葛飾北斎「八方睨み鳳凰図」は次回の見廻り時に観賞することとなった。 

2017年9月22日 (金)

NO441、豊島区椎名町付近(トキワ荘・自由学園明日館)の見廻り

9月20日(水曜)、天気予報では晴れ間もちらほらとの予報であったが、雨が降りそうな曇り日で、暑くもなく見廻り日和かと納得する中、椎名町付近から西池袋を見廻りした。

椎名町とは、昭和14年~昭和41年(1939~1966)までの間、現在の南長崎一・六丁目と目白四・五丁目に椎名町という町名が付けられていたが、帝銀事件の舞台としての名称を嫌われたために、町名としては残っていない。ただし、今でも商店街が存在するため、椎名町駅の周辺は便宜的に椎名町と呼ばれている。

1930年代には芸術家の集まるアトリエ村を形成し、ひいては「池袋モンパルナス」と呼ばれるようにもなり、著名な画家や詩人が若き日々を過ごした街としても知られるようになったそうな。マンガの原点・マンガの聖地と云われる「トキワ荘」物語は著明である。
*記念碑「トキワ荘のヒーローたち」漫画家たちの似顔絵とサインが刻まれている。P1080243
トキワ荘は、東京都豊島区南長崎三丁目に1952年から1982年にかけて存在した木造アパート。手塚治虫ら著名な漫画家が居住していたことで有名。現在は当時の跡形は何もない。
*「トキワ荘跡地モニュメント」若き漫画家たちが集まったマンガの聖地。P1080244
*当時の跡形はなく、日本加除出版社新館に変っている。P1080245
手塚治虫が「漫画少年」編集部の誘いで住み始めたことから、漫画家を志す若者たちが全国から集まり、寝食を共にした。
まとめ役は、寺田ヒロオだった。寺田を中心に「新漫画党」という新人漫画家のグループが結成された。
*トキワ荘2階居住者見取図P10802472
*トキワ荘通り「お休み処」の2階の展示スペース、トキワ荘の兄貴分・寺田ヒロオの部屋を再現した展示。P1080250
彼らが入居した当時は、漫画を書くことが「不良行為」と見なされる時代だったので、同じ志をもつ仲間と思う存分、漫画に打ち込める素晴らしい環境であった。トキワ荘は実力ある若手漫画家が集まり、のちに「漫画家の梁山泊」と呼ばれるまでになった。

トキワ荘の主な入居者:手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子不二雄(安孫子素雄、藤本弘)、鈴木伸一、石森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、よこたとくお等々。
*椎名町駅近くの真言宗寺院・金剛院には「マンガ地蔵」がある。P1080256

自由学園明日館 大正10年(1921)羽仁吉一・もと子夫妻によって創立された自由学園の校舎。近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトと、その高弟、遠藤 新による設計。校舎としての役目を終えた後、「明日館」と命名され、卒業生の諸活動の場所として使用。平成9年(1997)国の重要文化財に指定された。
*自由学園明日館正面P1080277
帝国ホテル設計のため来日したライトの助手の遠藤は、友人でもある羽仁夫妻をライトに引きあわせた。夫妻の教育理念に共鳴したライトは「簡素な外形のなかに思いを充たしたい」という夫妻の希望を基調とし、自由学園を設計した。
*喫茶室ホールの窓P1080272
木造で漆喰塗の建物は、中央棟を中心に、左右に伸びた東西の教室棟をシンメトリーに配しており、ライトの第一期黄金時代の作風にみられる、高さを抑えた、地を這うような佇まいを特徴としている。プレイリースタイル(草原様式)と呼ばれるそれは、彼の出身地・ウィスコンシンの大草原から着想を得たもの。道路を隔てた南西には、遠藤新設計の講堂がならび、重要文化財・自由学園明日館は構成されている。
*自由学園明日館・遠藤新設計の講堂内部P1080276
*フランク・ロイド・ライト
フランク・ロイド・ライト(1867年~1959年)は、アメリカの建築家。アメリカ大陸で多くの建築作品があり、日本にもいくつか作品を残している。プレイリースタイル( Prairie Style)の作品で知られる。浮世絵の収集でも知られ、日本文化から少なからぬ影響を受けていることが指摘されている。日本国内に現存する作品では、帝国ホテル、山邑邸(芦屋市、国の重要文化財)自由学園明日館(共同設計:遠藤新)等。

2017年8月28日 (月)

NO440、江戸五色不動尊の見廻り

8月27日(日曜)、残暑が厳しい日が続いているがまだ多少はましと思えるこの日、久しぶりの江戸の結界パワーに触れるべく、五色不動尊の見廻りに出かけた。
「お不動さん」と親しまれる不動明王は、本来インドの神であり、大日如来の命をうけて悪を懲らしめる使者である。そのため外面的には剣を持ち怒りに燃えた形相をしているが、内面的には慈悲の心で民衆を救う神と信じられて、庶民に親しまれている。
黒・青・赤・黄・白の五色は宇宙の全ての現象は「地・水・火・風・空」の五つからなるとする宇宙観を色彩で現したものとされる。江戸五色不動は、三代将軍家光が幕府統治指南役天海僧正の具申をうけ、江戸市中の名のある不動尊を五色不動尊に指定したことが起源と伝えられているそうな。

この日の概略行程:
我孫子出発⇒北千住⇒日比谷線三ノ輪→①永久寺→樋口一葉公園→三ノ輪⇒日比谷線上野⇒駒込⇒南北線本駒込→②南谷寺⇒駒込⇒大塚⇒都電学習院下→③金乗院→雑司ヶ谷鬼子母神(昼食)→副都心線鬼子母神⇒渋谷東急田園都市線⇒三軒茶屋→④数学院⇒渋谷⇒目黒→⑤目黒不動⇒バス⇒JR五反田⇒品川⇒我孫子着
行動時間:7時間30分、 歩行数:約16,000歩

*天台宗永久寺不動堂
永久寺は江戸中期に獄吏として罪人を斬首した山野永久が怨霊供養したことに因み寺名が付けられた。

P1080135
・目黄不動尊像(鼠もすくむほどの形相をした不動尊で、鼠不動の俗称もあるそうな)P1080136
☆樋口一葉記念公園の「たけくらべ」記念碑P1080140
*天台宗南谷寺不動堂P1080144
・目赤不動尊像(元は「赤目不動」と呼ばれていたが将軍家光が「目赤不動」に改名するよう命じたそうな)P1080146
*真言宗慈眼寺金乗院不動堂
慈眼寺は真言宗の寺院、本尊は聖観世音菩薩。不動明王像は廃寺となった新長谷寺(将軍家光から目白不動の称号を贈られた)から昭和20年に遷座したもの。P1080158
・目白不動尊像(通常の不動明王と異なり、自ら切断した左腕から火焔を吹出す形相をし特別強い力があるとされるそうな)P1080159
☆雑司ヶ谷鬼子母神境内にあるイチョウの巨木(樹齢700年以上、天然記念物)P1080167
昼飯は鬼子母神の裏手にある「そば処 和邑 」。
日本酒の熱燗とせいろ一枚で大満足。

*天台宗最勝寺数学院不動堂
寛永寺の末寺の一つで、本尊は阿弥陀如来。不動明王像は廃寺となった麻布谷町勧行寺から明治15年に遷座したもの。P1080174
・目青不動尊像(天と地を結ぶ雲が青色であるため「縁結びのお不動様」と親しまれているそうな)P1080178
☆数学院の境内にあるチシャノキの巨木(珍木)…チシャとはレタスのことで若芽の香が似ていることから名が付いた。P1080180
*天台宗龍泉寺本堂
龍泉寺は大同3年(808)慈覚大師の開創、幕府のあつい保護を受け繁栄を極めた。富籤が盛んで「江戸の三富籤」と称された寺院。P1080186
・本堂内部に不動尊像は安置(残念ながら撮影禁止)(龍泉寺の御本尊は目黒不動明王 (秘佛) ~十二年に一度 酉年に御開帳)P1080194
・独鈷の瀧前の不動尊像。P1080192_2
・龍泉寺の大日如来像(露座の銅製仏像。膝前で印を結ぶ胎蔵界大日如来像で天和3年(1683)の作)P1080195
☆龍泉寺の境内にある鈴懸(プラタナス)の巨木P1080197
*江戸五色不動尊の目黄不動尊像は2体あり、永久寺のほか江戸川区平井1丁目にある天台宗最勝寺(本尊は釈迦如来像)の目黄不動尊がある。今回は見廻り時間の関係より見廻りを省略した。

2017年8月10日 (木)

NO439、再建天守閣の大多喜城址の見廻り

8月8日(火曜)、笠森寺観音堂の見廻りの後、大多喜城址を見廻りした。見廻りをしたと云っても、再建された天守は現在内部が博物館となっており、天守のある場所以外は城内と云えるような城郭の面影は全くない。街並みを散策しての見廻りをする時間もなかったので、中途半端で終了した見廻りであった。
*大多喜城復元天守P1080062
大多喜城の概要・歴史
大多喜城は、千葉県夷隅郡大多喜町にあった戦国時代から江戸時代かけての城であり、小田喜城(おだきじょう)とも呼ばれ、大多喜藩が置かれていた。
大永元年(1521)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされる。今日の大多喜城は徳川家康の重臣・本多忠勝が築城し大多喜藩10万石であった。忠勝は3層4階の天守を持つ改築を行い、城下町の建設を行った。これが今日の大多喜城である。この城は幕末まで重要な役割を果たしてきたが、明治3年に取り壊された。その後、昭和50年(1975)に城跡に天保6年(1835)の図面を基にして天守が再建された。
*大多喜城と城下町の模造図(画面をクリックして拡大)P1080072
本多忠勝・本多忠朝
本多忠勝は徳川家康の四天王の一人として戦国の世を、生涯無敗で生き抜いた勇猛果敢な忠義一徹の武将である。
本多忠朝は慶長14年御宿沖で座礁したスペイン船(サン・フランシスコ号)乗員317名の命を救い、日本、スペイン、メキシコの友好交流の基を作った温情あふれ人間性豊かな武将である。
この二人の親子のエピソードを、NHK大河ドラマとして実行委員会が誘致活動を行っている。
*大河ドラマ誘致用の幟旗P1080065nhk

*本多家の家紋(瓦に焼き付けられた紋章)P1080063

本多氏以降の主な城主:
 阿部正次、青山正俊、阿部正令、阿部正春、稲垣重富、松平氏
廃城年:明治4年(1871)
遺構:土塁、横堀跡、堀切、郭、井戸

大多喜城の正式名称は“千葉県立中央博物館大多喜城分館”という。千葉県指定史跡の上総大多喜城本丸跡に昭和50年に建てられた天守閣造(3層4階の鉄筋コンクリート造)の歴史博物館。房総の中世・近世の城郭とそれに関わる武器・武具や調度品・古文書及び武家社会や城下町の生活などに関する資料を展示している。
*大多喜城再現天守

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