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2017年3月27日 (月)

NO411、根岸~日暮里~谷中~根津・界隈の見廻り

OB会サークル・総勢26名の善男善女仲間と共に、3月25日(土曜)根岸の里~日暮の里、山手線を越えて夕焼だんだんを下りて谷中・根津までの見廻りをした。
気象庁は、靖国神社にある桜・ソメイヨシノの標本木が開花したことを3月21日(火)に発表している。沖縄を除くと全国で最も早く
、昨年(2016)と同じ日の開花宣言であるので、場所によっては花見も期待できるかと思いきや、道中はまだまだの開花状況であった。

この日の行程:松戸⇒北千住⇒日比谷線入谷駅→小野照崎神社→入谷鬼子母神→子規庵→ねぎし三平堂→羽二重団子→駄菓子屋問屋→本行寺坂→経王寺→夕焼だんだん→よみせ通り→指人形笑吉→団子坂→森鴎外記念館→藪下通り→夏目漱石旧居跡→根津神社→串揚はん亭(昼食処)→谷中居酒屋「みぢゃげど」→千代田線千駄木駅⇒松戸方面

*小野照崎神社
小野篁を主祭神とし、相殿に菅原道真を祀る。852年(仁寿2年)この地の住民が上野照崎の地に小野篁を奉斎したのが起源と伝わる。
寛永年間、寛永寺の建立のため移転、現社地に遷座した。江戸末期、回向院より菅原道真自刻の像を迎えて相殿に祀り、「江戸二十五天神」の一つに数えられた。樋口一葉の「たけくらべ」に「小野照さま」の名で出ている。百人一首の11番は小野篁である、『わだの原八十島かけてこぎいでぬと 人には告げよあまのつり舟』参議篁。P1060167
*真源寺・入谷鬼子母神
万治2年(1659)日融が当地に法華宗本門流の寺院を開山したことによる。鬼子母神を祀っていることで、入谷鬼子母神の名称で有名
な寺院である。大田南畝の狂歌「恐れ入りやの鬼子母神」という洒落も有名である。真源寺は、雑司ヶ谷鬼子母神堂、中山法華経寺とともに江戸三大鬼子母神として多くの崇敬を集めているそうな。また、入谷鬼子母神の「鬼」には角が無いことでも有名である。
良く云われる地口(洒落)「びっくり下谷の広徳寺」「なさけ有馬の水天宮」「なんだ神田の大明神」P1060188
*朝顔市発祥の碑
7月の七夕の前後に当寺院の境内で朝顔市が開かれることで、入谷の名物であることはもとより、東京下町の夏の訪れを伝える行事と
して全国的にも知られている。P1060182
*鬼子母神の正岡子規の句碑
「入谷から出る朝顔の車哉」P1060187
*本行寺坂の桜の一枝に開花をようやく見つけた。P1060363
*経王寺の山門扉に残る鉄砲玉の貫通痕
慶応四年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。P1060201
*夕やけだんだんからの谷中銀座通りP1060210
*森鴎外記念館
鴎外がその半生を過ごした「観潮楼」があった土地。家屋は昭和12年に失火で焼失、銀杏の樹は昭和20年戦災でも焼け焦げたが、現在で
も生返ったあと旺盛に繁殖している。P1060212
*吾輩は猫
夏目漱石旧居跡の塀の上に猫の彫像。家は保存のために犬山市明治村に移築されている為、史蹟としてのわずかな跡地だけでさっぱりしている。P1060213
*「串揚げはん亭」の建物
大正初期に建てられた木造瓦葺寄棟屋根三階建て建物で、元々は「爪皮屋」の店舗と住居を改築し飲食店舗とした。爪皮(つまかわ)
とは下駄の先につける泥よけのカバーのことで、当時は良く知られた店だったそうな。P1060218
*写真はないが津軽の味「みぢゃげど」という郷土料理居酒屋で、有志による爺放談会を開き、日本酒の熱燗をひっかけた。弘前藩出身の女将さんと旦那さんのお話も田舎くさく面白すぎて全員酩酊。

2017年3月18日 (土)

NO410、国指定天然記念物「府馬の大クス」、県指定天然記念物「香取神宮の森」の見廻り

3月17日(金)、三寒四温の温の日に当たったと思われたこの日、樹木観察会のメンバーでマイカーを連ね香取市の天然記念物樹木を見廻りした。

この日の行程:我孫子駅前9:00集合→布佐成田屋→香取市府馬→宇賀神社「府馬の大クス」→戸田神社→香取神社参拝→「香取神社の森」→参道蕎麦屋(昼食)→佐原街並み→我孫子14:50着

*宇賀神社
宇賀神社の由緒は、宝亀4年(773)宇気母知神を勧進したことに始まる。府馬地区で一番古い神社であるそうな。
一帯は府馬城跡であり、中世この辺りに府馬氏が砦を構えていた。宇賀神社の後方は、昔この地の武士団が勝鬨の声をあげた場所として、鬨の台と呼ばれており、また鯨波台や時之台とも呼ばれているそうである。P1060310
*府馬の大クス(国指定天然記念物)
府馬の大クス(ふまのおおくす)は、千葉県香取市府馬にあるクスノキ科のタブノキの巨樹。国の天然記念物に指定されている。
府馬の高台に位置する宇賀神社の境内に生える樹高約20m、根周り約27.5m、幹周り約12m、樹齢1300年から1500年と言われるタブノキの巨樹。大正15年(1926)に「府馬の大クス」として国の天然記念物に指定された。昭和44年(1969)の調査でタブノキであることが判明。当時は俗にイヌグスと呼んでいたためと考えられている。
この高台は、平成13年(2001)に環境省の「かおり風景100選」に選定され、平成18年 (2006)には千葉県の「ちば眺望100景」に選定された。P1060308
*大クスと小グス
右のタブノキは「小グス」と呼ばれている。元もとは大クスとつながっていたが、大クスの枝が地上に垂れて根を張り成長したものである。P1060305
*戸田神社
メンバーの戸田さんと関係する神社かどうか立ち寄った。戸田氏の祖先はこの辺りまで進出していたのかどうかは定かでない。P1060318
*香取神宮
香取神宮は、祭神に経津主大神を奉り、創立は神武天皇18年と伝えられている。古来より国家鎮護の神として崇拝され、鹿島神宮と並んで「神宮」の社号をもつ。現在の社殿は元禄13年(1700)に徳川綱吉によって造営されたもので、本殿・楼門は国の重要文化財に指定されている。P1060336
*香取神宮本殿P1060337
*香取神宮御神木の杉巨木P1060343
*香取神宮の森(県指定天然記念物)
香取神宮の社叢林は、古くから信仰の場として保護されてきたため、幹周りが3mをこすスギの巨木が林立しており、イヌマキやモミ、クロマツの大木なども見られる。亜高木層にはスダジイ、シラカシ、サカキ、ヒサカキが、低木層にはスダジイ、ヤブツバキ、ネズミモチ、タブノキ、シロダモなどの常緑広葉樹が数多く生育している。スギの老齢林として県内で有数なものであり、学術的価値からみても貴重な森林であるそうな。
草木ではオニヒカゲワラビやトキホコリなどの湿った環境を好む希少種が生育し、アスカイノデ、フモトシダ、イワガネソウ、ベニシダというシダ類も多い。P1060321
*香取の森の説明版P1060322



2017年3月16日 (木)

NO409、赤坂~四谷~麹町~紀尾井町界隈の見廻り

真冬並みの寒波が突然に列島太平洋側にも襲い掛かり、初春と云うに冬支度でグルメの仲間と3月15日(水)、江戸市中見廻りに出かけた。

当日の行程:赤坂5丁目鈴降稲荷→豊川稲荷→迎賓館前→鉄砲坂→戒行寺坂→長谷川平蔵供養碑→若葉一丁目→西念寺服部半蔵の墓→岡崎三郎信康の墓→聖イグナチオ教会→番町文人通り→日テレ通り→善国寺坂→清水谷坂→清水谷公園→弁慶橋→赤坂見附

*鈴降稲荷
マンション地の一画にあるごく小さな祠。天正十年(1582)織田信長本能寺の変(6月21日)の時、徳川家康が三河に逃れ、伊賀越えの
際山中で道に迷った。遥かに鈴の音が聞こえるその方向をたどると観音堂があり、堂主山名孝倫が三箇の鈴を取り出し家康に献じた。また付近の住民を集めて道案内と警護をしたので、海路浜松へ帰ることが出来た。家康は江戸幕府を開くや、孝倫はじめ郷民を江戸に召し四谷に地を給し、これを伊賀同心組とした。彼等は一宇の祠を建て、鈴を神鈴として鈴降稲荷と号し伊賀組の鎮守としたそうな。P1060247
*赤坂豊川稲荷
豊川稲荷東京別院・妙厳寺であり、元赤坂にある曹洞宗の寺院。愛知県豊川市の豊川稲荷妙厳寺の別院。大岡越前守忠相が豊川稲荷か
らダ枳尼天(だきにてん)を勧請し、屋敷稲荷として自邸で祀ったのを由来とする。大岡越前守は、江戸南町奉行や旗本から大名へ取り立てられたことで知られる。それにあやかり江戸の豊川稲荷も、立身出世や盗難避け、失し物・失踪人などの効験で評判となったそうな。P1060259
お稲荷さんには二系統あって、日本古来の穀物神(一般にお爺さんの姿)を祀る伏見稲荷系と、仏教の神様ダキニ天(一般に女神の姿
)を祀る豊川稲荷系がある。大岡越前忠相の墓。P1060263
稲荷の狐(霊狐)は神仏そのものではなく、神仏の眷族で神意を代行して現世と接触する特定の動物(狐)。日吉神社の猿,八幡の鳩
,春日の鹿,熊野の烏,北野の牛,大黒天の鼠,弁才天の蛇などは眷族である。P1060267
*長谷川平蔵供養碑
池波正太郎の原作「鬼平犯科帳」の火付盗賊改の鬼平こと、実在の長谷川平蔵の供養碑。延享3年(1746)江戸赤坂(現赤坂6-12)の
拝領屋敷で生まれ、姓は藤原、名は宣以、後に平蔵といった。父宣雄が火付盗賊改の後、京都西町奉行に栄進したが急逝した。その後、家督を継ぎ、西城御書院番や御徒頭を勤め、御先手弓頭から火付盗賊改を兼帯。さらに石川島人足寄場を開設した。軽犯者や無宿者を収容して技能を習得させ、授産施設として成功させた功績がある人物。P1060275
*西念寺の服部半蔵の宝篋印塔墓
服部半蔵は、本名を正成といい、徳川家康の三河以来の旧臣で、家康十六将の一人に数えられる武将である。「鬼の半蔵」として知
られ、三方ヶ原の戦いや小田原攻めで功をあげ知行8千石を賜り、家康の江戸入府後は、江戸城西門近くに居を構え城の警備等にあたった。半蔵門の名は彼の名に由来する。半蔵は、天正7年(1573)家康の長男信康が切腹する際介錯役を命じられたが「主君に刃は向けられない」と果たせず、検死役が見かねて介錯を行った。晩年信康の菩提をとむらうため麹町清水谷に庵を建て、西念と号し仏門に帰依した。家康から寺院を建立するよう内命をうけたが、西念寺は半蔵の没後完成した。P1060277
*西念寺の岡崎三郎信康の墓
永禄2年(1559)家康の長男として生まれる。母は築山殿。織田信長との同盟強化として、信長の娘五徳姫を妻に迎える。しかし、母
築山殿は今川義元の姪であり、この結婚は喜ばなかった。信康との夫婦仲は悪くなかったらしく、2人の娘が生まれている。武勇に優れ、長篠の戦いには家康とともに参戦。信長が武田氏との内通や他の罪状を押し付け、家康に殺すことを命じた。天正7年(1579)遠州二俣城において切腹。享年21才。半蔵が持っていた遺髪が西念寺の墓に埋められている。P1060279
*聖イグナチオ教会
聖イグナチオ教会(英: St. Ignatius Church)ことカトリック麹町教会とは、麹町六丁目にある教会と聖堂である。イエズス会に運
営を委託されており上智大学に隣接するが、上智学院の一組織ではなく独立している。聖イグナチオ教会も上智学院もイエズス会と関係を有している故、聖イグナチオ教会と上智大学との間には密接な関係があるとみなして差し支えないそうな。
イエズス会とはカトリック教会の中の修道会の1つで、キリスト教(カトリック)が浸透していない地域に、宣教活動をする為に設立さ
れた修道会のことである。P1060287
*番町文人通り
麹町通りから大妻通りに抜ける東西の道で「番町文人通り」と呼ぶ。P1060297
*大久保利通哀悼碑
内務卿・大久保利通は、明治11年(1878年)5月14日朝、霞ヶ関の自邸を2頭立ての馬車で出発し、弁慶橋を渡り明治天皇の赤坂仮皇
居(現在の東宮御所)に向かっていたが、紀尾井坂にかかるあたりで大久保の政策に反対する士族・島田一郎ら6名による襲撃を受けた。襲撃犯らはまず御者を斬り、馬車の中にいた大久保を引きずり下ろして暗殺した。「紀尾井坂の変」というそうな。暗殺の現場に6.27mの高さの追悼碑が建てられた。P1060300
*清水谷公園(大久保利通哀悼碑前)に咲くハクモクレン の花P1060304
*お勧め食事処「赤坂ととや魚新」の炭籠弁当2700円(絶品の美味さ)P1060254


2017年3月14日 (火)

NO408、弥生3月、春まだ浅き筑波山の見廻り

3月12日(日曜)、関西在住の山友が百名山の一つとされる紫峰筑波山に未踏との事で、久しぶりの再会を山登りを兼ねて果たそうともう一人の友を加えた3人での見廻りと相成った。当然に筑波山口駅からのフルコースでの見廻り登山である。

この日の行程:TXつくばセンター駅(シャトルバス)8:30→バス停沼田→筑波山口→つくば道→六丁目鳥居→筑波山神社→男体山コース→→男体山頂→セキレイ茶屋(昼食休憩)→女体山頂→旧弁慶茶屋跡→白蛇神社→筑波山神社→バス停神社前→つくばセンター(宴会)→TXにて帰路18:30

*筑波山口からの紫峰筑波山
男体山及び女体山の山頂には筑波山神社の本殿がある。男体山にはイザナギ、女体山にはイザナミの神が祀られている。 中腹にある筑波山神社は拝殿で、拝殿より上部の山自体が御神体とされる。男体山は、西側から見たとき、最も高い峰として望まれるため、古来これが最高とみなされ、山頂に男神が祀られたとされる。 女体山山頂から東側の尾根には、幾つもの奇岩が重なり合って露出して見所となっている。P1060219
*藤田小四郎の像:天狗党の筑波山挙兵
江戸時代末、元治元年(1864)には、水戸藩士の天狗党が、筑波山で挙兵した。 尊皇攘夷派の藤田小四郎を中心にした62人で、水戸町奉行の田丸稲之衛門を主将とした。 筑波山での挙兵は、当時から名山として知られ挙兵を各地に印象付ける目的があったと見られる。 挙兵後、浪人や農民などが集結し数日で150人余りに膨れ上がったと伝えられている。 ただ、筑波山は挙兵の地ではあるが、筑波山での戦闘は無い。 筑波軍は最初敗れるも、諸藩軍の本営があった下妻の多宝院を夜襲するなどして勝利を収めたそうな。P1060222
*筑波山神社の御神橋
 茨城県指定文化財。切妻造柿葺屋根付。間口1間、奥行4間。通常は渡れない。春と秋の御座替祭、年越祭のときのみ参拝者は渡ることが出来る。 江戸時代、寛永10年(1633)3代将軍徳川家光公の寄進で造られ、元禄15年(1702)には、5代将軍徳川綱吉公によって改修されている。 安土桃山時代の様式をなす荘厳な造り。P1060223
*男体山頂の筑波山神社本殿(イザナギの神):男神の社は千木を外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)、堅魚木(鰹木)の数は奇数は陽数で男神を現す(女性より一本多いと云う訳ではない)。P1060228
*女体山頂の筑波山神社本殿(イザナミの神):女神の社は千木を内削ぎ(先端を地面に対して水平に削る)、堅魚木(鰹木)の数は偶数は陰数で女神を現す(男性より一本少ないと云う訳ではない)。P1060236
遠方から来た旧友を交えて、日本語が余り聞こえない国際都市つくばのコジャレタ居酒屋で酩酊・沈没。楽しき見廻りの一日であった。

2017年2月26日 (日)

NO407、市川市、化研病院「恩賜館」の見廻り

2月24日(金)、地元市民活動の関係でたまたまお知合いになった「市川博物館友の会」U氏による一般公開日のご紹介により、市川市の化研病院にある現存する皇室建築では最も古く、築140年を超える建物である「恩賜館」を見廻りした。自身では見学申込をしたものと勘違いしていたのだが、前日になりそのことに気付き、当日半分諦めて申込をしたところ、担当の方が快く受け付けてくれた次第である。

恩賜館は化学療法研究所付属病院が開設されるときの、昭和13年(1938)に宮内省から下賜された。その当時、結核は日本人の死因1位の感染病であったが、化研病院の治療研究の功績が認められたのが下賜の理由だそうな。
*恩賜館正面玄関口Cimg6210
そもそも当該皇室建築物(恩賜館)は、明治8年(1875)明治天皇の嫡母・英照皇太后(孝明天皇の皇后)の住まいとして青山御所に建てられた。その後解体され、麹町の内大臣官舎に移築され日本間として使用された。更に昭和11年に解体保管され、昭和13年に下賜されたもの。
*下賜候事の書Cimg6190
恩賜館は2度の解体・移築を繰返し現存することになったが、本来あった青山御所や内大臣官舎地は太平洋戦争の空襲で全焼した。恩賜館は、たまたまの偶然で戦火を逃れた貴重な建物である。
*建築様式「真・行・草」に謂う「真」の格式建築の十五帖奥の間Cimg6207
*天井は格子組の「格天井(ごうてんじょう)」格高の「高天井」Cimg6182
*欄間の縁は漆塗りCimg6183
*違い棚・床の間・付書院の書院造りCimg6208
*十二帖控の間、天井は猿棒天井Cimg6184
*廊下にも格式が窺えるCimg6201
*菊のデザインの金張釘隠しCimg6188
*豪華な焼物の小便器Cimg6194
昭和14年(1939)化研敷地内に移築された「恩賜館」の日本間棟は「青山御所御中殿」の最も大切な15帖間の二室が現存する明治初期の稀有な皇室建築として位置づけられるそうな。
*木片に記載された説明文Cimg6198
初代研究所長、長谷川秀治先生が結核に対する有効な薬剤として研究し、化学療法を確立した植物がタマサキツヅラフジ。
*タマサキツヅラフジの実。この実には含まれないが、根にセファランチンと呼ばれるアルカロイド系の成分が含まれ、かっては結核やハンセン病患治療にも用いられていた。Yjimage10

2017年2月16日 (木)

NO406、三浦海岸と三崎港マグロ食事処の見廻り

今年もグルメの仲間と彼方此方ウロウロと食べ歩き見廻りをすることとし、2月15日(水)三浦半島へ出かけた。三浦海岸までは我が街、我孫子からはJRと京急電車で2時間30分近くもかかる遠方であるが、この地の春はさすがに一足早く訪れ、この日は風もなく穏やかな海原と河津桜満開の春を満喫することが出来た。しかも美味マグロの食事付である。

*三浦海岸駅前公園の満開の河津桜
三浦海岸とは北の津久井浜から南の菊名浜に連なる三浦海岸海水浴場一体の砂浜を指す。投げ釣りのメッカ・映画やテレビのロケ地などで良く知られる場所である。
その昔、名産であった三浦大根による沢庵漬けのための大根干しが冬場の風物詩となっていたが、いまは殆んど見られない。P1060128
*京急電車沿線の河津桜並木と菜の花
三浦海岸駅から小松ヶ池公園にかけて約千本の河津桜が咲き誇る。夜は線路沿いの桜をライトアップしているそうな。P1060132
*海南神社
千年の昔から三浦を守る三浦半島総鎮守で、三浦一族の祈願所であり藤原資盈(すけみつ)を祀る神社。三浦義明は源頼朝挙兵をこの神社で占った。「神事狐合」(白と赤の狐を戦わせ占う)を行い、白狐が勝ったため源頼朝に加わった。鎌倉幕府を開いた頼朝が寄進したという大銀杏があり、三浦半島の総鎮守である。P1060147
*源頼朝寄進による大銀杏
境内には源頼朝が平氏打倒、源氏政権樹立とともに寄進したと伝わる樹齢800年の大銀杏(大公孫樹)がある。三浦市内で最も古く、幹周は4.6m、樹高は15m。
三浦一族の繁栄、源頼朝の三崎来遊、後北条氏による治世、江戸時代の水軍奉行、明治の城ヶ島軍事施設化など、この古木が800年の三崎を見てきたかと思うと、歴史の醍醐味を感じる。P1060139
*神社の拝殿(12個の鈴が12本の綱に括り付けられている)
海南神社は藤原資盈(すけみつ)を祀る。源氏の始祖・清和天皇(850-881)の御代、藤原資盈は皇位継承の争いにおいて伴大納言善男に味方しなかったことから讒訴され筑紫に流罪となり、その渡航中暴風に遭い864年一族とともに三崎に漂着した。
資盈はこの地の長となり、房総の海賊を平定して漁業、文化、福祉にも尽力し、住民の尊敬を集めたそうな。P1060142
*海南神社神橋の擬宝珠
三浦半島の最西南端に位置する三崎は古来から知られた風光明媚の地。平安以来、戦国時代に三浦義同が後北条氏に攻め滅ぼされるまで約450年もの間、三浦一族が治めた。その後、後北条氏が入り対岸の里見氏に対する備えとした。江戸時代には徳川の三崎御船奉行向井政綱が治め徳川水軍の拠点とした。境内にある神橋の擬宝珠は子の向井忠勝が寛永10年(1640)に奉納したものだそうな。P1060146
油壷の由来……三浦義同が北条早雲に攻め滅ぼされ、その落城の際に討死した三浦家主従の遺体によって港一面が血に染まり、油を流したような様になったことから、油壷と云う地名になったそうな。

*「にじいろさかな号」船底のガラス窓から海中の魚がのぞける。P1060152
*三崎港出航の船から見える対岸の千葉房総半島(右側)P1060155
油壷マリンパーク……現在は入場者数は減少し、設備は全体的に老朽化が目立つが、ファミリー向け施設として楽しめるそうな。

マグロ食事処……「みさきまぐろきっぷ」購入でマグロ食事券が付く。30店舗の食事処から限定マグロメニュー(意外とどの食事処も好評)。ちなみにsa-sanとその仲間は三崎港回転寿司「さん和」で、食事券メニューの本鮪中トロ3貫・本鮪赤身2貫・地魚5貫、魚のアラ入り味噌汁を頂いた。当然熱燗2合は別料金で注文。なお、「さん和」は回転する寿司ではなく、設備はあるが目の前での手握りの本格寿司やである。設備がある理由は不明。

「みさきまぐろきっぷ」は京急品川駅から3,060円で購入。購入駅からの往復乗車券・京急バスフリー乗車券・マグロ食事券・施設利用券orお土産券が付いている。また、「にじいろさかな号」乗船1,200円は施設利用券を使用した。

本日16日は・・・・・
建久元年(1190)2月16日、西行法師が七十三年の生涯を弘川寺で終えた日である。
  「願はくは 花のしたにて 春死なん 
          
そのきさらぎの 望月の頃」

2017年2月13日 (月)

NO405、雪に覆われた筑波山の見廻り

今年は、関東を除いて日本各地で大雪の弊害が続いている。関東と云えるかどうか微妙であるが、例年雪の少ない茨城県の水戸市では2月に入ってからも大雪に見舞われている。紫峰山と云われる筑波山からの便りも雪の情報であった。今年になってから筑波山神社参拝も出来ず仕舞いで気にかけていたが、ようやくに晴れの予報となり如月2月12日(日)筑波山の見廻りに出かけた。

筑波山女体峰は877mの低山であるが、雪中登山での強風も予想され、寒さに弱いsa-sanは冬山装備のいでたちと万全を期した。さりながら、筑波山はなんと優しく、風は全くなく、暖かな陽だまりに包まれていたのであったぞ。

*筑波山神社随身門に掲げられた「年越祭」
筑波山神社の年越祭は、もともと旧暦の1月14日に行っていた追儺式(豆まき)が元となっている。その年初めての十五夜の満々たる月の如く一陽来復・家内安全・身体安全・除災招福・厄除けなどを祈願する祭礼で、現在は2月10日・11日の二日間にわたり盛大に斎行されている。残念ながら一日遅れであった。P1060108_2
*女体山尾根道の雪に覆われた登山道
標高600m辺りからは陽だまり以外の登山道は完全に凍結し、雪に覆われていた。アイゼン着装である。P1060111
*快晴の中、女体山山頂から霞ヶ浦方面を望む登山者P1060113
*女体山奥ノ院への雪の参道…ロープウェーで上がってきた一般客は凍結した階段から引き返している。P1060116
*男体山奥ノ院脇の一体のみの狛犬?…もう一体は何処に失せたのか?今回初めて疑問に思ったが…P1060119
*男体山の裏登山道は雪のため下山に苦渋した。P1060120_2
*筑波山神社裏の陽だまりで見つけた福寿草P1060124
*筑波山神社の「一の鳥居」(6丁目鳥居)
4月1日・11月1日に執り行われる御座替祭の一つである神幸祭では、 一の鳥居(6丁目鳥居)より上の地域は、筑波山神社の神域とされ神衣を神輿に収め、氏子地域のつくば道を神輿が渡御するそうな。P1060125
今年は筑波山神社の由緒ある各祭礼に斎行参拝したいものである。

2017年1月29日 (日)

NO404、山ノ手七福神巡り各寺社の変わった物体の見廻り

旧正月である28日(土)、前週に引続き山ノ手七福神の見廻りに出かけ、気になる変わった物体を見廻りカメラに収めてきた。
同行した輩は、男8人女8人の16名、平均年齢は60代後半であるにかかわらず、全員が2時間半の行程を完歩した。行程やタイムスケジュールは前回と同じであるので割愛する。

新宿山之手七福神の概要
新宿山之手七福神は、大久保通りの飯田橋駅と新宿駅との間に点在する7寺社による七福神めぐりで、5ヶ寺2神社で構成され、約2時間で参拝可能な七福神だそうな。

太宗寺(布袋尊)
浄土宗寺院の太宗寺は、1596年頃(慶長年間)甲州街道の道筋に「太宗」と称する僧の太宗庵が始まり。徳川家重臣・内藤正勝の信望を得て、寄進を受け太宗寺と改称している。
*奪衣婆(しょうづかのばばア)
奪衣婆は閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者の衣服をはぎ取るとされる。像の高さは約2.4m。衣をはぐことから、内藤新宿の伎楼の商売神としても信仰されたという。P1060067_2*塩かけ地蔵尊
塩に埋もれたお地蔵様のお塩を少し頂いて、出来物の幹部に擦り込むと治るそうな。治った後に頂いた塩の量を倍返しする決まり。P1060070_2
稲荷鬼王神社(恵比寿神)
稲荷鬼王神社は、天保2年(1831年)戸塚の福瑳稲荷を勧請したといい、熊野から勧請した鬼王権現と合祀して稲荷鬼王神社となった。境内の恵比寿神社(三島神社)に恵比寿神が安置されている。平将門の幼名と関係がある。
*鬼の水鉢
江戸時代の造立とされる石造の水鉢。しゃがんだ鬼の頭に、鬼より大きな手水鉢を乗せた姿をしている。P1060071_2
永福寺(福禄寿)
曹洞宗寺院の大久保山永福寺は、僧尊悦(慶長15年寂)が開基となり慶安元年(1648)創建、もと牛込万昌院末。本尊釈迦如来、薬師堂の薬師如来は慈覚大師の作だそうな。
*福禄寿の頭部を形取りした長細い石P1060075_2
法善寺(寿老人)
日蓮宗寺院の法善寺は、日相上人(貞享4年寂)が創建した。境内に安置してある七面明神は、池上本門寺に帰依していた鳥取城主池田家四代綱清から献上されたもので、法華宗独特の七面信仰江戸進出の最初のもの。
*七面大明神で有名である当寺院に「寿老人」がどう関係するのかよくわからないが棚の上に安置されている。P1060079_2
抜弁天厳島神社(弁財天)
白河天皇の御世、応徳3年(1086)鎮守府将軍・源義家公は、後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願した。義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったと伝えられている。
*やけに鼻の下が長い竜の顔(スケベガオ?)P1060082_2
経王寺(大黒天)
日蓮宗寺院の経王寺は、日静大徳が慶長3年(1598)市ヶ谷田町に創建した。当寺の大黒天像は、日蓮上人高弟の「日法上人」の作で、日静上人が身延山久遠寺より持ち出したものという。度重なる火事にも焼け残ったことから「火伏の大黒天」として崇敬を集めた。
*大黒天は中央の厨子の中に安置されている。撮影禁止の張り紙あり。P1060085_2
*境内には心が和む童地蔵が何体も安置されている。P1060087_2
善国寺(毘沙門天)
日蓮宗寺院の善国寺は、徳川家康より天下安全の祈祷の命をうけて、日惺上人(池上本門寺十二世)が麹町六丁目に文禄4年(1595)創建、寛政5年(1793)当地へ移転した。善国寺の毘沙門天は、加藤清正の守本尊だったとも、土中より出現したともいわれ、江戸の三毘沙門と称されている。
*レプリカと思われる本堂内の木造毘沙門天。P1060091_2
*水が穢れを清めるごとく、煩悩の汚泥を洗い注ぐ水徳を持つ菩薩様。神楽坂に相応しく妙に艶めかしく水っぽい。P1060093_2
前回と同様に東京大神宮そばの鮮魚三昧「うお座」で定食の魚の煮付で熱燗2.5合を痛飲。

2017年1月23日 (月)

NO403、「新宿山の手七福神」の見廻り

今年も遅ればせながらの、貴重な残り福をついでに拾いつつ、1月22日(日)に「新宿山の手七福神」の見廻りに出かけた。この処、日本列島には関東南部を除く九州から北海道まですっぽりと大寒波が襲い、各地で大雪の被害が拡大中である。にもかかわらずこの日は、都内は風もなく日だまりは暖かく澄みきった青空の快晴で、20数名の同行者と共に快適な見廻り日和を過ごした。

【この日の行程】我孫子駅→上野駅→秋葉原駅→四ツ谷駅→(丸ノ内線)→新宿御苑前駅⇒①(布袋尊)霞関山太宗寺⇒②(恵比寿)稲荷鬼王神社⇒③(福禄寿)大久保山永福寺⇒④(寿老人)春時山法善寺⇒⑤(辨財天)厳嶋神社抜弁天⇒⑥(大黒天)大乗山経王寺⇒⑦(毘沙門天)鎮護山善国寺⇒神楽坂界隈(散策)⇒東京大神宮⇒飯田橋駅→秋葉原駅→上野駅→我孫子駅
【行動時間:6時間、 歩行時間:2時間30分、 休憩時間:1時間30分、 歩数:約14,000歩】

新宿山之手七福神の概要
新宿山之手七福神は、大久保通りの新宿駅と飯田橋駅との間に点在する7寺社による七福神めぐりで、5ヶ寺2神社で構成され、約2時間
30分で参拝可能な七福神。

①(布袋尊)霞関山太宗寺
浄土宗 御本尊阿弥陀如来、慶長元年(1596)頃、太宗という僧がこの地に建てたといわれる太宗庵を起源とする。
徳川家康江戸入府に際してこの辺りを屋敷地として拝領した内藤家(後の信濃高遠藩主)の帰依も得、内藤家の菩提寺となった。
江戸六地蔵の3番地蔵、江戸三閻魔の閻魔王像、新宿山之手七福神の布袋尊が安置されている。
*江戸六地蔵の甲州街道を守る3番地蔵P1060042
*江戸三閻魔の閻魔大王と奪衣婆の安置されている閻魔堂。奪衣婆は閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者の衣服をはぎ取るとされる
。衣をはぐということから、内藤新宿の伎楼の商売神としても信仰されたという。P1060040
*布袋尊が安置されている阿弥陀堂P1060039
②(恵比寿)稲荷鬼王神社
稲荷鬼王神社は、戸塚諏訪神社境内の福瑳稲荷を承応2年(1653)に勧請したといい、天保3年(1832)に当地の百姓田中清右衛門が熊
野から勧請した鬼王権現をと合祀して稲荷鬼王神社となった。全国唯一の鬼の福授けの社として信仰を集める。平将門の幼名が「鬼王丸」といったことから、名前を取ったとの謂れがあり、江戸将門怨霊七社の一つである。
*境内の恵比寿神社(三島神社)には、新宿山ノ手七福神の恵比寿神が安置されている。P1060043
③(福禄寿)大久保山永福寺
宗派 曹洞宗 本尊 釈迦如来、 創建年代 慶長15年(1610)以前。
開基の貴雲尊悦は慶長15年(1610)入寂、開山の桂屋瑞漱は万治2年(1659)入寂ということなので、それ以前の創建である。薬師堂の薬師如来は慈覚大師の作と伝えられる。
*札所本尊の福禄寿は、境内の小堂に祀られている。P1060049*福禄寿像P1060048
④(寿老人)春時山法善寺
日蓮宗寺院の法善寺は、春時山と号し、日相上人(貞享4年寂)が創建した。甲州の七面山に鎮まるという七面明神は七面天女・七面
大菩薩とも称し、身延山の鎮守である。法華経守護の神として信仰を集めたが、江戸で祀られたのはこの寺が最初だそう。七面明神は本堂に祀られ、新宿区の文化財に指定されている。
*寿老人は庫裏玄関前小部屋に安置されている。P1060051*法華経守護の神・七面明神観音の画像P1060056
⑤(辨財天)厳嶋神社
抜弁天厳島神社は、応徳3年(1086)鎮守府将軍「源義家」が奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝
利を祈願し、奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)を祀ったと伝えられる。江戸六弁天(本所・洲崎・滝野川・冬木・上野・東大久保)の一つで、東大久保の弁天様とも云うそうな。
*参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰された。P1050231
⑥(大黒天)大乗山経王寺
日蓮宗、経王寺は、日静大徳が慶長3年(1598)市ヶ谷田町に創建した。天和3年(1683)当地へ移転した。当寺の大黒天像は、日蓮宗
中老日法の作で、日静上人が身延山久遠寺より持ち出したものといい、度重なる火事にも焼け残ったことから「火伏の大黒天」として崇敬を集めた。
*開運大黒天・火伏の大黒天として江戸庶民の信仰を集めた。P1060057
⑦(毘沙門天)鎮護山善国寺
日蓮宗、善国寺は、徳川家康より天下安全の祈祷の命をうけて、日惺上人(池上本門寺十二世)が麹町六丁目に文禄4年(1595)創建
、寛政5年(1793)当地へ移転した。
善国寺毘沙門堂の毘沙門天は、加藤清正の守本尊だったとも、土中より出現したともいわれ、江戸の三毘沙門と称されている(三毘沙
門は特定できず不明)。
*善国寺本堂:本堂の毘沙門天像は撮影禁止P1050246
○番外、東京大神宮
東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年に創建され、「東京のお伊勢さま」と称され親しまれているそうな。最初日比谷の地に
鎮座していたことから、世に「日比谷大神宮」と称されていた。関東大震災後の昭和3年に現在地に移ってからは「飯田橋大神宮」と呼ばれ、戦後は社名を「東京大神宮」と改め今日に至る。天照皇大神・豊受大神を主祭神とする。
*拝殿には「良縁・結縁」を求むる多くの参拝者の列P1060063
見廻り終了後、東京大神宮通りにある居酒屋「うお座」で煮魚と刺身の定食(980円)を肴に、熱燗2合を頂いた。

2017年1月16日 (月)

NO402―☆、おまけ・・・鳶火消「梯子乗り」伎の見廻り

「あんばさま」見廻り時に、なんと幸運なことであるか、鳶職の皆さんの「梯子乗り」演技を見学することができた。
上手く写真に撮り込めなかったが、幾つかのタイミングの良い場面が残っていたので、ブログでご案内する。

各々、「梯子わざ」の名前が合致しているかは判らないが、調べた名前を貼りつけておく(間違ってたらご勘弁)。
写真は数少ないが、見終わったら出演者(知らない方々であるが)に敬意を表して、心からの拍手をお願いしたい。

*狐遠見(きつねとうみ)P1050992
*肝潰し(きもつぶし)の準備?P1050993
八艘(はっそう)P1050994
*遠見(とおみ)P1050996
*二本八艘P1050999
*足絡め(あしからめ)
P1060001
唐草(からくさ)or谷覗き(たにのぞき)
P1060002
*逆さ大の字(さかさだいのじ)P1060003
*全員集合(龍ヶ崎の皆さんの木遣り歌)P1060008





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