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2017年7月22日 (土)

NO434、市川大野(柏井町)の巨樹、子安神社のスダジイの見廻り

7月16日(日曜)、スダジイの巨樹が十数本生茂っていると云われる市川大野にある子安神社を見廻りした。
子安神社は、主に安産・子育ての神が祀られている神社である。御祭神は木花之開耶姫命(このはなさくやひめ)であり、古来よりから産土神「土神社」として多くの信仰を集めたそうな。

柏井子安神社の創建年代は不詳だが、元禄5年(1962)建立の庚申五層塔、元文5年(1740)の水舎、その他文政・天保・安政年間の灯篭、絵馬なども認められる神社である。庚神五層塔は市重要文化財である。P1070758
*本殿は拝殿の奥にあり、ここで直接お詣りができる。P1070761
*市川市指定重要有形文化財・庚申五層塔P1070762
*拝殿周辺はスダジイの巨木に覆われた鎮守の森であるP1070763
*参道沿いのスダジイの巨樹群に覆われた参道は、日中でも暗闇参道の佇まいである。P1070765
*神社参道入口のスダジイの巨樹P1070769


NO433、市川市行徳の巨樹(天然記念物)の見廻り

7月15日(土曜)、市川市の江戸川放水路以南の地で、江戸時代には行徳塩田が設置され、水上交通の要所でもあった行徳の巨樹を見廻りした。行徳街道には寺院が多く寺町通りの名があり、「行徳千軒寺百軒」ともいわれた歴史ある地域である。

☆神明(豊受)神社
行徳街道沿いに由緒ある神明(豊受)神社がある。御祭神は豊受大神。神明神社は金海法印という山伏により建立されたと伝えられる。金海法印は徳が高く行いが正しかったことから、多くの人々に行徳さまと崇められた。行徳と云う地名になった。
この神社はかっては14ヶ村の総鎮守で、現在3年ごとに行われる行徳五ヶ町祭りの大神輿はここから出発するそうな。P1070728
*神明(豊受)神社のイチョウは、江戸名所図会にも描かれている幹周6m程の巨樹である。P1070733
*2本のケヤキは、2007年の火災で幹が焼け痛ましいが、焼けていない側は今でもたくさんの葉を繁らせている。P10707302
*行徳町道路元標:道路元標というのは、大正8年(1919)に道路の起点や終点を示す指標として設置されたものである。P1070735
☆押切稲荷神社
神社の創建年代等は不詳だが、現本尊は350年程前に鎮座していたもの。御祭神は宇迦之御魂神。本殿には御尊体として約八百五十年前の鎌足義政の作と言われている十一面観世音菩薩が安置されていると云う。。
押切稲荷神社の千寿銀杏は、平成14年11月市川保存樹木に指定され 幹回り6,5m高さ30m、とされている。雌木で、毎年たくさんの銀杏がなる。P1070739
*押切稲荷神社の千寿銀杏P1070740
御祭神=宇迦之御魂命となっているが、現地由緒書によると御本尊は十一面観音菩薩となっている。神仏習合思想の名残と思われるが、稲荷寺院の御本尊は荼枳尼天(だきにてん)で、稲荷神社の御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたま)である。

☆浄土宗源心寺
西光山安楽院源心寺と称する。源心寺は、浄土宗芝増上寺の観智国師が開山となり、慶長16年(1611)創建した。P1070749
*六地蔵が当地では有名である。P1070748
*源心寺のイチョウ 剪定が激しくされ、本来のイチョウの美しい姿とはかけ離れた樹形である。P1070750


2017年7月12日 (水)

NO432、「花の宝庫」入笠山、八ヶ岳高原の植物の見廻り

7月9日(日曜)から10日にかけて、とある植物観察会の周年記念バス一泊旅行に誘われ、ホイホイと気楽に参加し、「花の宝庫」入笠山と八ヶ岳高原の植物観察がてら見廻りをした。入笠山の植物観察における目玉は、入笠湿原を埋め尽くす「100万本の日本すずらん」と実験園内で見られる絶滅危惧ⅠA類「釜無ホテイアツモリソウ」である。

当該の植物観察会は本年を以って15周年を迎えているが、その会員のレベルの高さ、会を運営する事務局幹事役員の豊富な知識と熱意、隔月に発行する中身の充実した会報など、なにをとっても感服する存在感のある団体である。sa-sanはお邪魔虫的存在ではあるが時々定例会に顔をだし、植物知識を充電している次第である。

行程:入笠山麓⇒富士見パノラマリゾート→ゴンドラ山麓駅⇒標高1,780m山頂駅→入笠湿原→山彦荘→御所平お花畑→山彦荘→入笠すずらん山野草公園→ゴンドラ山頂駅⇒山麓駅⇒八ヶ岳高原⇒樅の木荘…翌日10日…⇒八ヶ岳自然文化園→園内散策→高原散策⇒甲州街道の宿場「道の駅:蔦木宿」⇒帰路

入笠山(にゅうがさやま)は、長野県の中西部にある赤石山脈(南アルプス)北端の標高1,955 mの山。山頂からはほぼ360度の大展望が広がり、南・中央アルプス・八ヶ岳はもとより富士山や、遠くは北アルプスなども望める。周辺には大阿原湿原や入笠湿原などがあり、これらの湿原に自生する植物を楽しむこともできる。生憎この日は、周辺の山々は霞がかかり展望なし。

観察した植物の種類は、高原植物・湿原植物の花々、草木・樹木であり、説明を頂いた件数はメモに記載しただけでも70数種にのぼり、この場を借りて記載したら大変なことになるので、ほぼ割愛する。とは言え、ほとんどの種類をハッキリとは記憶できていない。悲しいかな加齢による脳の委縮であろうか、解り易い説明を右耳から左耳に高原の風と共に消え去るばかりである。

花の名前、樹木の名前が写真と確認できたもの、上手く写真に納まったもののみ掲載する。

*展望悪しの八ヶ岳連峰P1070632_2
*ベニバナイチヤクソウ  「紅花一薬草」と 書くように、傷や虫刺されに効く薬草。P1070638_2
*ネバリノギラン 和名の由来はノギランに似て花穂が粘ることから。P1070642_2
*クリンソウ 花は円状につき数段に重なる姿が仏閣の屋根にある「九輪」に似ていることから名前の由来となっている。P1070648_2
*日本すずらんの群生地P1070639_2
*サルオガセ「樹皮に付着して懸垂する糸状の地衣」。霧藻、蘿衣ともいう。P1070655_2
*ヤグルマソウP1070658_2
*釜無ホテイアツモリソウ  「絶滅の危険性が極めて高い区分にされて、幻の花と言われる。野生ランの王者」P1070672_2
*もう一枚P1070675_3
*センジュガンピ  (千手岩菲)ナデシコ科センノウ属の多年草。P1070676_2
*コウリンタンポポ  ヨーロッパ原産で、日本では帰化植物として定着している。 別名「エフデギク」。P1070679_2
*ヤナギランP1070680_2
*アサギマダラ  八ケ岳では初夏から夏半ばまでいつでも身近に見かける。 この小さな蝶は日本列島を縦断、さらに南の沖縄や台湾まで延べ2,200km以上を飛んでいく。 翌年春、その逆のコースで日本に渡ってくる。P1070685_2
*ノコギリソウ 葉形から鋸草、別名 ノコギリバナ(鋸花)、羽衣の故事からハゴロモソウ(羽衣草)とも称される。P1070693_2
*ナツニレノキの巨木P1070706_2
*ヒメウツギP1070712_2
☆釜無山(2,116m)は入笠山(1,995m)の隣りの山で釜無ホテイアツモリソウはその山麓で発見された希少価値の高い花であり、その生育が確認されたのは長野・山梨・福井の3県だけである。

☆「花の百名山」で知られる入笠山、と表記している文章があるが、田中澄江氏の花百名山の本には「新花の百名山」も含め入笠山は入っていない。「花の宝庫」と云うのが相応しいと思う。

2017年7月 6日 (木)

NO431、里見氏所縁の国府台城跡・里見公園の見廻り

文月、7月5日、文明11年(1479)に太田道灌が築いたものと伝えられている国府台城跡で、現在では城跡の面影は薄いが、近隣住民の憩いの場所として美しく整備されている里見公園を見廻りした。

里見公園は江戸川に面した台地上にあり国府台と呼ばれ、ここには下総国府が置かれ下総国の政治や文化の中心であった。
室町時代、2度にわたり房総の里見氏は国府台城で北条氏と対戦したが敗れ、以降北条氏の支配するところとなった。
江戸時代、徳川家康が関東を治めると国府台城は廃城となり、明治時代から終戦まで国府台は兵舎の立ち並ぶ軍隊の街として栄
えた。昭和33年、市川市はこの由緒ある古戦場を、里見公園として開設した。
*里見公園入口

P1070590
*歌碑
川明かりおよぶ木群の寂けさを安らぎとしてここぞふるさと  松本千代二P1070607
*歴史ある城跡で、古木の巨樹が多く自然林の状態で良く保存管理されている。主な樹種は、スダジイ、タブノキ、ケヤキ、ムクノキ、アラカシ、シラカシ、イチョウ、サワラ、モッコク、ヤブツバキ、オオシマザクラ等々。P1070600
*バラ園
里見公園噴水広場にはバラを植栽しバラ園が出来ている。112種のバラで、700株あるそうな。市民の花はバラ。
主な品種はローズいちかわ(日本)、マリア・リサ(フランス)、ヘレン・トローベル(アメリカ)、ピース(フランス)、プ
リンセス・アイコ(日本)、スパニッシユビューティー(スペイン)等々。P1070597
*国府台城跡
里見公園の地形を見ると、江戸川に向かってコの字型に二重の土塁が築かれていたことが推定できる。土塁の外側を空堀が囲っ
ていたと古文書などから知ることができる。これが国府台城の城跡で、この城は文明11(1479)年に太田道灌が築いたと伝えられている。P1070593
*紫烟草舎
歌人で詩人北原白秋(明治18年~昭和17年)が大正5年、小岩にあったこの離れで創作を続け、白秋自身で紫烟草舎と名づけた。
復元をここに求めたのは、白秋が葛飾の野をこよなく愛していたことによる。小岩では亀井院のカヤぶきの庫裡の六畳を借り、江口章子と同棲していた。白秋三一歳、章子二八歳のとき。白秋は人妻松下俊子との恋愛・結婚・離縁により、その人気と名声は崩れ落ちていた。この傷手をやわらげてくれたのが江口章子(NO427、参照)とこの静かな田園年生活であったそうな。
「葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺のうきぐさの花」
「米櫃に米のかすかに音するは白玉のごとはかなかりけり」P1070606
*羅漢の井
高台にあって水源が乏しいにもかかわらず一年中清水が湧いている。里見一族が布陣の際の飲用水として使用したと思われる井
戸。伝説では弘法大師が巡錫の折に発見したと伝えられ、いかに水が貴重なものであったかを物語っている。P1070602

*国府台城跡の樹木群P1070619
*里見群亡の碑
永禄7年(1564)、里見義弘は8千の軍勢を率いて国府台に陣を構え、北条氏康軍2万を迎え撃つ。当初戦いは里見側に有利であっ
たが、北条軍は寝込みを襲い一斉に攻撃したので里見軍は狼狽し、士気を失い敗退した。この合戦で敗北した里見広次らをはじめとして討死する者5千名と伝えられる。里見軍戦死者を弔うものもなく文正12(1829)年になり、里見諸士群亡塚、里見諸将群霊墓、里見広次公廟が建てられた。P1070611
*夜泣き石
永禄7年(1564)に里見・北条の合戦で戦死した里見広次には13歳になる美しい姫がいたが、父の霊を弔うため、遠い安房の国か
ら国府台を訪ねた。姫は身も心も疲れ果て、そばにあった石にもたれかすかな声で、父の名を呼び泣き続け息絶えた。以来、この石から夜になると悲しい声が聞こえるという伝説を秘めた石。里見群亡の碑に隣接してある。P1070610
*明戸古墳石棺 
市川市の文化財に指定されているこの2つの石棺は公園裏山内にある。板のような緑泥片岩製の組み合わせ式箱型石棺で蓋石は
見られないが、古墳時代後期にこの地方に勢力をふるっていた豪族の墓と推定される。この地方に箱型石棺があるのは極めて珍しい。P1070621

*市川市堀の内4、伊弉諾神社のハリギリ(市天然記念物)P1070567_2
*市川市北国分1、愛宕神社の2本大イチョウ(市天然記念物)P10705752



2017年6月30日 (金)

NO430、大賀ハス発掘地、検見川地区の樹木見廻り

見廻り記録掲載の日にちが少々前後したが、6月26日(月曜)、千葉県内の各地で見られるようになった「大賀ハス」の発掘地で知られる「落合遺跡」のある検見川地域の巨樹巨木を見廻りした。

落合遺跡は、千葉市検見川の東大検見川厚生農場(東大検見川総合運動場)内にある遺跡である。昭和26年(1951)に大賀一郎によって約2000年前のハスの種子が3粒が発掘された。そのうち1粒が翌年開花し、各地に根分けされこの時期に美しく開花している。

この日の行程:船橋⇒京成検見川駅→検見川神社→東大検見川総合運動場(大賀ハス発掘地まで往復25分)→東大緑地植物実験所→しらさぎ公園→子安神社→真蔵院→三代王神社→子守神社→京成幕張駅⇒船橋
行動時間:徒歩約3時間

☆廣徳院
真言宗豊山派、覺王山中臺寺。宝亀5 年(774)の創建。由緒不詳。P1070493_2
*廣徳院のケヤキP1070490
*廣徳院の公孫樹P1070491
☆検見川神社
貞観11年(869)疫病を治めるため嵯峨の地に素盞嗚尊を祀ったのが始まりとされる。文禄年間(1592~1596)に現在地に遷
されたという。祭神は、素盞嗚尊、宇迦之御魂神、伊弉冉尊の三神を祀る。P1070482
*検見川神社参道階段下のケヤキP1070481
☆東大検見川総合運動場
大賀ハスの発掘地はこの運動場の中程にあり、事務所で見学手続きを取り入場許可をもらって入る。この辺り落合遺跡といわ
れ、昭和22年の発掘調査では3隻の丸木舟と9本の櫂が発見され、弥生時代の舟だまりと推測されている。

☆しらさぎ公園
大賀ハスが栽培されており大賀ハスが沢山見られる。なお、大賀ハスは千葉県の天然記念物に指定されている。
*大賀ハスP1070517

☆子安神社
神社由緒書によると、延暦年間(782~806)この地を支配した豪族の古墳を神体とし、五穀豊穣の神として創立した。のち奇
稲田姫命を勧請し、安産の守護神として祀ったそうな。船橋市二ノ宮神社が中心となり、7年に一度の三山七年祭りが行われる。これは、室町時代に千葉康胤が嫡子出産に際し、二宮神社・子安神社・子守神社・三代王神社に安産祈願をしたことに由来し、周辺9神社が、父、母、子守、産婆、叔父、叔母、長男、娘、末息子の役割で参加して行われる。子安神社は「母」の役割。 ムクノキ2本・タブノキ3本・ケヤキ2本・スダジイ2本の巨樹がある。

P1070503_2
*子安神社のタブノキP1070498_2
*子安神社のカヤノキP1070499
☆真蔵院
真言宗豊山派。大同元年(806)の開基。本尊は、千葉常胤の三男、武石三郎胤盛が母の菩提を弔うために祀った地蔵菩薩。P1070524
*真蔵院のタブノキとシロダモP1070531
*真蔵院のイチョウP1070526
☆三代王神社
祭神は天種子命。三山七年祭りでは産婆の役で参加する神社。タブノキ2・ケヤキ・スダジイ3・モチノキの巨樹がある。P1070521
*三代王神社のタブノキとケヤキP1070519_2
*三代王神社のモチノキP1070523
☆子守神社(こまもりじんじゃ)
平成16年に改装された立派な社殿を持つ神社。素盞嗚尊を祭神とする。下総三山七年祭では子守役として参加する。イチョウ
の御神木がある。

☆大賀ハスP1070516



NO429、明治維新以降の建造物として初めての国宝・迎賓館赤坂離宮の見廻り

6月27日(火曜)、関東建築物探訪の仲間と、どんより曇った梅雨空の中、国宝・迎賓館赤坂離宮を見廻りした。入館料は1,000円、入口で厳重な持ち物検査を受けての入館である。建物内の撮影は禁止、前庭・主庭の撮影のみ可である。

迎賓館は、元紀州徳川家の広大な敷地の一部に、明治42年(1909)に東宮御所として建設されたもので、当時日本の一流建築家や美術工芸家が総力を挙げて建設した日本における唯一のネオ・バロック様式の西洋風宮殿建築である。
*前庭入場口から中門、本館玄関口P1070551
戦後、わが国が国際社会へ復帰し、外国の賓客を迎えることが多くなったため、「旧赤坂離宮」を改修して迎賓館とすることになった。昭和49年(1974)の開館以来、世界各国の国賓、公賓がこの迎賓館に宿泊し、華々しい外交活動の舞台となった。また、先進国首脳会議や重要な国際会議の会場としても使用されている。昭和50年から支障のない時期に、館内を一般に公開している。
*前庭正面本館玄関口P1070545
迎賓館は、ジョサイア・コンドルの弟子の片山東熊の設計により、元紀州藩の屋敷跡に東宮御所として建てられた。しかしネオ・バロック様式の外観が華美に過ぎたことや、使い勝手が良くなかったことから、嘉仁親王(大正天皇)がこの御所を使用することはほとんどなく、赤坂離宮として扱われることとなった。戦後の一時期、国立国会図書館(1948–61年)、裁判官弾劾裁判所(1948–70年)、東京オリンピック組織委員会(1961–65年)などに使用された。
*前庭正面玄関口屋上の鎧武者像2体P1070544
*正面玄関の屋根飾りや内装の模様などに鎧武者の意匠があるなど、建物全体に西洋の宮殿建築に日本風の意匠が混じった装飾になっている。拡大=右側の屋根の鎧武者P1070540
昭和49年(1974)3月に現在の迎賓館が完成した。新装なった迎賓館に迎えた最初の国賓は、1974年11月に現職のアメリカ合衆国大統領として初来日したジェラルド・フォードだった。
*主庭側からの本館P1070536
2006年から2008年にかけて大規模な改修工事が行われ、平成21年(2009)12月8日、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)として国宝に指定、明治以降の文化財としては初の国宝となった。
 構造=鉄骨補強煉瓦石造、地上2階(地下1階)、延床面積 =15,000平米

*国宝の噴水(ちなみに迎賓館の国宝は、本館・正門・主庭噴水池)P1070535
*噴水と本館P1070538
以下では、室内の写真が撮影禁止であるので、「内閣府HP」より写真を借用している。

*中央階段
2階大ホールから見下ろす中央階段の床にはイタリア産の大理石が張られ、その上に赤じゅうたんが敷きつめられ、階段の左右の壁にはフランス産の大理石が鏡張りされてる。Photo_3
*中央階段を上がった2階大ホール正面の左右の壁面には2枚の大油絵(小磯良平作、左側は「絵画」、右側は「音楽」)Photo_5
*彩鸞の間
左右の大きな鏡の上と暖炉の両脇に「鸞」(らん)と呼ばれる霊鳥をデザインした金色の浮彫りがある。白い天井と壁は金箔が施された石膏の浮彫りで装飾されている。 晩餐会の招待客が国・公賓に謁見したり、条約・協定の調印式や国・公賓とのテレビインタビュー等に使用される。Photo
*花鳥の間
天井に描かれた油絵や、欄間に張られた錦綴織、壁面に飾られた30枚の楕円形の七宝などに花や鳥が描かれている。日本画家の渡辺省亭が描き、明治期の七宝焼の涛川惣助が焼いたもの。主に国・公賓主催の公式晩餐会が催される大食堂で、最大130名の席が設けられる。Photo_2
*羽衣の間
謡曲の「羽衣」の景趣を描いた300平米の曲面画法による大絵画が、天井に描かれている。3基のシャンデリアは最も豪華で、7,000個もの部品で組み立てられ、高さ約3m、重さ約800㎏であり、壁は楽器、楽譜等をあしらった石膏の浮彫りで飾られている。正面の中2階はオーケストラ・ボックスで舞踏会場として設計された。Photo_3
*帰り道の公園で咲き誇っていた合歓木の花P1070555



2017年6月23日 (金)

NO428、紫陽花の見頃、松戸市平賀・本土寺の見廻り

6月21日(水曜)は梅雨時真っ最中で、一日中本降りの雨。紫陽花の見頃の時期であり、平賀は本土寺の見廻りを計画していたが、予報もみごとに的中で、この時期当然と云えばその通りであるが、雨、あめ、雨での見廻りとなった。いかにこの寺院が紫陽花で有名であるのかが、この日には実証された。訪れる人が雨だというのに何んと多いことであるか!!

☆本土寺の由来
宗派 は日蓮宗本山 、山号は長谷山、本尊・三宝尊。 創建年は建治三年(1277)、 開山は日蓮の高弟・日朗、 別称あじさい寺。
本土寺は源氏平賀家の屋敷跡と伝えられ、建治三年(1277)領内の地蔵堂を移し法華堂として始まり、後に日蓮聖人より長谷山本土寺と寺号を授かったそうな。池上の長栄山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺と共に、日朗門の三長三本と呼ばれている。かっては本堂を中心に七堂伽藍がその山容を誇ったが、度々の「不受不施の法難」と明治維新の廃仏毀釈運動のために衰減したが、三聖人出生の聖跡として知られる名刹である。三聖人とは平賀家の三兄弟で、日蓮第一弟子の日朗聖人、日蓮に次ぐ偉聖と例えられる日像聖人、池上本門寺、鎌倉妙本寺の日輪聖人である。現在では1万株の紫陽花、5,000株の花菖蒲でも 有名で「あじさい寺、花の寺」として親しまれる。本土寺の「本土」とは「我此土(わがこのど)」であり、お釈迦様が本当の佛、本佛に由来するそうな。
(注)不受不施(ふじゅふせ)とは、日蓮の教義である法華経を信仰しない者から施し(布施)を受けたり、法施などをしないこと。

*仁王門
間口三間半、奥行二間、木造瓦葺桜門式。参道の正面に「長谷山」の扁額を掲げた朱塗りの高楼。階上には金色の千体佛が祀られている。

P1070433
*五重塔
平成三年に、日像聖人六百五十遠忌記念として建立される。高さ18m、中にインドのネール首相より贈られた真仏舎利の一粒を納め、千体佛と共に祀られているそうな。P1070438
*松尾芭蕉の句碑
「御命講や油のような酒五升 芭蕉」P1070440
*本堂
間口八間、奥行十間、木造銅板葺、慶安四年(1651)に小金城主一族の恵了院日修が息女の菩提を祈って造立したと記録されている。
P1070444

*甲斐武田一族・秋山夫人の墓
秋山夫人とは徳川家康の側室「於都摩の方」、家康の五子万千代(武田信吉)を生み、信吉は御三家水戸家に繋がる。水戸光圀が本土寺のこの墓石を建立したとつたわる。P1070447
*像師堂
京都開教の祖・日像上人の「日像菩薩像」が祀られる。
「日像菩薩誕生水」と合わせて「子安乳出の日像様」として信仰を集めている。P1070456
*乳出の御霊水
「日像菩薩誕生水」とも言われ、日像上人がお生まれになったとき清水が湧き出て、それを産湯として使ったとされる。後に井戸とし、その水を飲むと病気が治り、たちまちに乳の出がよくなるという不思議なご利益により当時は参詣祈願の列が絶えなかったそうな。またその井戸の脇には銀杏があり、乳が垂れたような枝が生え「乳出銀杏」と言われている。P1070454_2
*宝樹庵P1070465
*開山門
文政四年(1821)に建立。 旧輪蔵院の門。P1070466_2
*赤門P1070467_2
*花菖蒲(見頃は終わっていた)P1070450
*紫陽花1P1070449
*紫陽花2P1070452



2017年6月19日 (月)

NO427、柏市増尾城跡周辺と江口章子所縁地の見廻り

6月18日(日曜)、文学散歩の会のメンバーと増尾城跡周辺の史跡や詩人江口章子に所縁のある地域を見廻りした。

当日の行程:柏駅⇒バス名戸ヶ谷車庫→薮崎家長屋門→法林寺→増尾城跡公園→廣幡八幡宮社→江口章子辻堂→萬福寺→少林寺→東武増尾駅⇒柏駅⇒我孫子駅
歩数概算=13,500歩 行動時間:4時間30分

*柏市名戸ヶ谷薮崎家長屋門  
伝宝暦年間建造で良い状態に保全管理されている。薮崎家は戦国時代増尾城に繋がる旧家だそうな。P1070398_2
*薮崎家の彌惣治文庫文芸資料館 
館長は、与謝野晶子との論争でも有名な詩人・随筆家の大町桂月に感銘を受け、掛け軸や著書などを収集し、自宅内に資料館を設立し
た。そのほか、幕末維新期の儒学者・芳野金陵の掛け軸や明治から大正時代の浄土宗の僧侶・山崎弁栄の宗教画など柏にまつわる偉人の作品が約300点以上収集の資料館。見学無料。P1070390_2
*宝林寺の山門と大イチョウ
瑞雲山宝林寺。真言宗。本尊は不動明王。 創建は慶安3年(1630)。境内の大銀杏は柏市指定天然記念物で樹齢400年と推定され
ている。この大銀杏には、康応元年(1389)頃に、越後の比丘尼が托鉢の途中、一夜の宿を求めたので泊めたところ、お礼にと一粒の銀杏を取り出し「これを蒔くように」と言って立ち去ったという伝説があり、この実が育ち高さ30m、根本の太さが周囲14m以上に達する樹に育った。このあたり一帯が大飢饉に見舞われ村に食べる物がなくなった時、村人はこの銀杏の実で飢えをしのいだという話が残っている。P1070400_2
*増尾城跡
千葉県柏市増尾にあった日本の城。増尾城は、小金城高城氏の家臣・平川若狭守の居城であったそうな。高城氏は北条氏に属し、1590
年(天正18年)の「小田原攻め」の際に廃城となったと思われる。現在は増尾城址総合公園として整備されており、土塁や空堀のほか、虎口などの遺構も良好な状態で保存されている。P1070401_2
*廣幡八幡宮社
創建は、第59代宇多天皇の御代で「下総国第一鎮守」と伝えられている。徳川時代に至って、慶安三年(1649)には、三代将軍家光公
より御朱印地十石を献上されたそうな。
御祭神は、誉田別名(15代応神天皇)・気長足姫命(神功皇后)・玉依姫命。仲哀天皇・武内宿称を合祀。
現在の本殿は、天保年間(1830年~1843年)造営と伝えられ、権現流造り、基礎の石垣は安土桃山時代(1573年~1595年)の形式を遺
す。本殿周囲の彫刻は、御祭神の事跡を刻んだもので、精巧秀麗なものである。P1070408_2
*宝暦七年(1758)に藤原本多正珍より、石鳥居一基を寄進された。これは当宮の外、布施弁天、塚崎の神明宮の二社一寺に寄進されたも
のと同一。P1070409_2
*椿の古木
八幡社に隣接した邸宅の庭で、椿の古木を庭師が手入れをしていたので問うたところ、「推定樹齢450年のヤブツバキ」との事、見事
な椿である。P1070412450_2
*江口章子が仮寓した辻堂の念仏堂P1070416_2江口章子の概暦:江口章子( あやこ)「明治21年(1888)4月1日 ~ 昭和21年(1946)」は、歌人、詩人。北原白秋の2番目の妻。
大分県西国東郡香々地町に生まれ、大分高等女学校で学ぶ。18歳で弁護士と結婚、8年後離婚すると平塚雷鳥を頼って上京。大正5年
(1916)から市川真間で白秋と同棲、大正7年(1918)には入籍するも、2年後離婚。大分に戻り柳原白蓮を訪ねた後、西国巡礼。大正10年京都の大徳寺芳春院に入り、3度目の結婚をするが2ヶ月後には出奔。昭和5年(1930)芳春院聚光院の中村戒仙と結婚するが、翌年には精神に変調を来し京都帝大病院精神科に入院。昭和13年(1938)戒仙と離婚。晩年は香々地町の実家に戻り、昭和21年12月29日に、座敷牢の中で糞尿にまみれ餓死同然と死去。正気と狂気の58歳の波乱の人生を終わった。(写真はYahoo画像より)Yjimage_2
中村戒仙と章子:
増尾の旧家豊田家の次男として明治14年6月に生まれ、7歳で少林寺住職の養子となり、京都大徳寺の要職を歴任、章子と出会った後、大正15年(1926)に増尾宮根の辻堂に章子を寓居させ、昭和5年に結婚、昭和13年(1938)離婚。
中村戒仙:明治14年〜昭和47年(大徳寺508世・大徳寺聚光院住職)道号隋応・法諱宗雄・室号直入軒・別号雪山・高安。
聚光院(じゅこういん)京都府京都市北区紫野にある臨済宗大本山大徳寺の塔頭のひとつである。利休の墓をはじめ、三千家(表千家
・裏千家・武者小路千家)歴代の墓所となっている。

*萬福寺の阿弥陀堂
医王山福満寺。真言宗。 寛永2年(1625)創建といわれる阿弥陀堂には、本尊の阿弥陀如来坐像(千葉県指定文化財)が安置。 こ
の像は高さ88.1㎝の等身大、カヤ材を用い割はぎ造の技法で制作、楽な姿勢や穏やかな面相に定朝様式の特色があり、作風から12世紀後半の作とみられるそうな。P1070422_2
*少林寺の歌碑
増尾山少林寺。臨済宗。本尊は十一面観世音,阿弥陀如来で、開山は永禄元年(1558)と言われている。
江口章子の歌碑:「手賀沼の水のほとりをさまよいつ 芦刈る音を わがものとせし 章子」P1070428_2
*少林寺の1石五輪搭
相馬重胤の墓とも伝えられる一石五輪塔。 重胤は初代相馬師常から6代目で、所領奪回のため奥州に下向し、南北朝の戦乱を生き抜
いた。 石柱には「鎌倉で自害」と刻まれている。P1070430_2≪一石五輪塔は一つの石から彫りだされたもの。五輪塔は主に供養塔・墓塔として使われる仏塔の一種。五輪卒塔婆、五解脱輪塔とも呼ばれる。五輪塔の形式は下から、地輪は方形、水輪は球形、火輪は宝形屋根型、風輪は半球形、空輪は宝珠型≫

2017年6月17日 (土)

NO426、下総佐倉藩・佐倉城跡の見廻り

梅雨入り後の16日(金)、佐倉城跡の天然記念物「夫婦もっこく」を観察会のメンバー11人で見廻りをした。この日は快晴で汗ばむどころか、汗が滴るほどの温度上昇となり、今年の暑さにはまだ慣れきれてない加齢者軍団には厳しい行軍となった。

この日の行程:我孫子駅改札集合⇒成田駅⇒京成成田⇒京成佐倉→→国立博物館入口→愛宕坂→佐倉城址公園→本丸→天守台跡→夫婦木斛→姥ヶ池→菖蒲園→大手門跡→麻賀多神社→昼食そばや→佐倉武家屋敷→JR佐倉駅⇒成田駅⇒我孫子
概算歩数:16,000歩

*愛宕坂のケヤキ巨木に住むアオバズク
全長27-30cm。頭部から背面は黒褐色で、下面の羽毛は白く褐色の縦縞が入る。嘴の色彩は黒い。後肢の色彩は黄色。鳴き声は「ホッ
、ホッ」と二回ずつで規則正しい。平地の森林や農耕地に生息し、夜行性で、昼間は樹上で休む。食性は動物食で、昆虫類、両生類、爬虫類などを食べる。樹洞に巣を作り、1回に2-5個の卵を産む。大木の樹洞に巣を作るため社寺林に飛来し、昆虫類・爬虫類・小動物を食べ、日本では最も身近なフクロウと言っていい。

P1070343
*愛宕坂のケヤキの巨木・・・アオバヅクは右のケヤキに棲みついている。P1070345
*古園石仏大日如来像が何故か実物大で再現
大分県臼杵市にある磨崖仏である大日如来像のレプリカが設置されている。この石仏の仏頭が再び体とつながったことで、参拝すると
首がつながる、会社でリストラ(解雇)されないという俗説が生まれたそうな。P1070348
☆佐倉城址公園は、佐倉城跡の中に設置されている公園。公園内には天守閣跡、空堀など城の遺構が多数残され、天守閣跡脇の樹齢約400年の「夫婦モッコク」(千葉県指定天然記念物)をはじめ、シイ、カシ、モミジなどの大木がいたる所にある緑多き歴史公園である。

*馬出し空堀
馬出し空堀の説明板では『城門前に築いて人馬の出入を敵に知られぬようにした土手が馬出しであります。』とあるが意味不明の説明
で、正しくは【馬出し空堀は敵から攻められにくくするために空堀をめぐらせたもの。堀があれば、敵は直接門にはたどりつけず、堀を迂回して攻めてくる敵に横から矢を射掛けるなどして撃退する設備である。】

P1070234
☆佐倉城は、慶長15年(1610)に佐倉に封ぜられた土井利勝によって翌慶長16年~元和2年(1616年)までの間に築造された平山城。北に印旛沼、西と南に鹿島川・高崎川が流れる低地の標高30m前後の台地に位置する。佐倉城はこうした地勢を巧みに利用し、水堀、空堀、土塁を築き、東の台地上に武家屋敷と町屋を配し、城下町とした。
城内は、城の中心をなす本丸、二の丸、三の丸、曲輪からなっていた。大手門(追手門)、三の門、二の門、一の門を経て広い本丸の
跡にでる。本丸には屋形があり、天守閣、銅櫓、角櫓などがあった。明治時代、ここに連隊が設置される際にすべて解体されたため、城の建造物は、西出丸薬医門を除き一切残っていない。本丸の天守閣跡地と夫婦木斛(右側)

P1070263
☆佐倉城は江戸防衛の東の要衝及び西方面より西国大名に江戸が攻撃された際の将軍家の退避処として徳川譜代有力大名たちが封ぜられ、幕府の老中職についた大名が徳川各藩中最多を数えたことから、俗に『老中の城』とも呼ばれ、それとともに城下町も栄えた。大手門跡。P1070370
*堀田正睦(ほった まさよし)は、江戸時代末期の大名・老中首座。下総佐倉藩の第5代藩主。258年間に及ぶ佐倉藩の歴史の中でその6割弱の141年間堀田家が治め、その石高は概ね11万石。千葉県における最大の藩であり、幕末に筆頭老中としてハリスの条約交渉に全力を注ぎ、日本を開国へと導いた堀田正睦を輩出した。正睦は深刻な財政難に悩む藩を改革により立て直すことに成功し、また洋学を積極的に取り入れ、蘭方医、佐藤泰然を佐倉へ招く。佐藤は、医学塾兼診療所、佐倉順天堂(順天堂大学の前身)を開らいた。P1070237
*「姥が池」(うばがいけ)
昔、この池のまわりで家老の娘をおもりしていた姥が、あやまって娘を池に落として沈めてしまい困り果てて自分も身を投げたという
ことからこのような名がついたそうな。水仙が咲き誇っていた。P1070357
*花菖蒲園 約9000株 50種P1070361
☆明治初期、旧佐倉城内に陸軍の歩兵連隊(歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊等)が設置され、佐倉は軍都となった。歩兵第五十七連隊は、アジア・太平洋戦争を戦い、やがて昭和19年(1944)フィリピンレイテ島において玉砕した。

*兵営の便所跡・・・便所の土台のみが残っている。P1070351
*訓練用の12階段・・・兵士が高所から飛び降りる訓練をするために造られた階段P107036012
☆夫婦もっこく(県指定天然記念物)P1070252_2
*このモッコクは、佐倉城の本丸跡にあり本丸西側の土塁に接して植えられている。説明文では、「樹高は11.6m、幹囲2.9mに達し、樹齢約400年以上と推定され、樹勢もきわめて旺盛である」と記されている。余計な事であったが実測したところ、「樹高19.5m、幹周①176㎝+②180㎝+③208㎝=564㎝(3本立)」である。通常のモッコクは低木のイメージが強いので、驚くほどの大きさである。もともと植えられた株数は1本と推測されるが、幹は3本に分れ立ち、このうちの2本が接合しているように見える。

*刃物で悪戯掘りした文字キズP1070254
*根元の太さP1070355_3
*佐倉城の築城については、「土井利勝が慶長16年(1611)から元和3年(1617)まで7年をかけて完成し、規模こそ小さくとも本丸等に、種々の庭樹を植え雄大な風格を示した」と伝えられているが、このモッコクは庭樹の一つであったと考えられている。

☆麻賀多神社の御神木:いちょう
旧佐倉藩の総鎮守で、古くから「まかたさま」とこの地方の人々に親しまれ、崇敬されてきた神社。御神木:大銀杏 樹齢800年以上。P1070290
*麻賀多神社についてはNO424を参照されたし。P1070371
☆佐倉武家屋敷
城下町佐倉の面影を残す土塁と生垣の通りに面して、「旧河原家住宅」(千葉県指定文化財)、「旧但馬家」、「旧武居家」の3棟の
武家屋敷が現在公開されている。江戸時代後期の建築で、佐倉藩士が暮らしていた。旧河原家は、市内に残る武家住宅の中で最も古いものとされ、佐倉の武士の生活様式を垣間見ることができる。P1070376



2017年6月11日 (日)

NO425、安房の国・鋸山乾坤山日本寺(ケンコンザンニホンジ)の見廻り

6月9日(金曜)、初夏のさわやかな風に誘われ校友会の日帰りバス旅行に参加し、安房の鋸山周辺の見廻りに出かけた。安房房総半島は外房・内房ともに同一県内とは言え、我が居住の下総アビコとはアクセスが非常に悪く、気軽に出向いて見廻りする地域とは云いづらいところであり、今回は良き機会であった。

行程:我孫子発⇒鋸山山麓駅(鋸山ロープウエーで山頂へ)⇒日本寺境内散策⇒鋸南保田IC⇒海鮮丼・浜焼きの昼食⇒崖観音(大福寺)⇒道の駅枇杷倶楽部⇒富浦IC⇒海ほたるSA⇒我孫子駅北口帰着

★鋸山(標高330m)は鋸の歯のような険しい?稜線で、昔から東京湾に入る船の目印とされていた。
室町時代から昭和57年(1982)まで、房州石(金谷石)と呼ばれる石材を切り出した石切場跡が残っている。
徒歩のほかロープウェーや自動車道(有料)も整備されており、年齢や体力を問わず誰でも楽しめる。また温暖な房総半島に位置しているため1年を通して登ることができ、東京湾をはさんで三浦半島をはじめ、富士山や大島を見ることができるそうな。
この日は、楽々のロープウェー(片道500円)で山頂駅まで4分。
*東京湾を隔てて久里浜港

P1070300
*鋸山山頂P1070303

*石切り現場跡の切通しP1070305
★日本寺(乾坤山日本寺)
日本寺は約1300年前、聖武天皇の勅詔を受けて、行基菩薩によって開かれた関東最古の勅願所である。鋸山の南側斜面10万坪余りを境内としており、大仏(薬師瑠璃光如来)、百尺観音像、千五百羅漢石像群などがある。天台宗、真言宗を経て徳川三代将軍家光公の治世の時に曹洞禅宗となり、今日に至っている。
日本寺の本尊は薬師瑠璃光如来。衆生の病苦を救う医薬の仏様で、左手に薬壺を持っているのが特徴である。
*百尺観音
高さ30.3m。戦死病没殉難者供養と交通犠牲者供養のために、6年の歳月をかけ昭和41年にかつての石切場跡に彫刻された大観音石像。P1070306
*地獄のぞき
高さおよそ100mの地獄のぞきからは、東京湾および房総半島、富士山等が見渡せる。P1070309
*石大仏(薬師瑠璃光如来)
高さ31.05m。正式名称は薬師瑠璃光如来。奈良東大寺大仏のおよそ1.8倍の高さを誇る日本一の石大仏。天明三年(1783)に大野甚五郎英令が27人の門弟と岩山を3年かけて彫刻したものが原型である。その後昭和41年に4年にわたって修復されたそうな。P1070322_2
*源頼朝との関係
源頼朝は石橋山の戦いに敗れた後、房州に逃れ再起を図った折に日本寺で武運を祈願し、自ら蘇鉄を手植えした。現在も大蘇鉄として境内に残っている。
*イワタバコ
湿った岩壁に着生し、花は美しいので山草として栽培もされる。葉がタバコに似るのでこの名がある。また若葉が食用にできる。まだ咲きはじめである。P1070319
*アブラギリ
西日本と中国に自生し、また栽培もされる。葉の形はキリに似る。花は6月頃咲き、5弁で白く径3 cmほど、円錐花序をなしよく目立つ。果実は円いさく果で6個の大きな種子を含み、秋に熟す。P1070328
*大福寺の磨崖仏観音堂
大福寺は、千葉県館山市船形にある真言宗智山派の寺院。山号は船形山。院号は普門院。境内には崖造りの観音堂があり、磨崖仏として十一面観世音菩薩が刻まれ、崖の観音と称される。P1070341


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