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2018年1月15日 (月)

NO452、沖縄戦の慰霊碑「ひめゆりの塔」巡拝の見廻り

沖縄見廻りの記・第2弾である。この地の見廻りについては特に多くを語ることは不要である。

『ひめゆりの塔』は、沖縄戦末期、南風原(はえばる)町にあった沖縄陸軍病院第三外科所属の軍医、看護婦、ひめゆり学徒たちが、南部への撤退時に避難した壕(伊原第三外科壕)の跡に立つ慰霊碑で、現在の沖縄県糸満市伊原にある。
  
その名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していた『ひめゆり学徒隊』にちなむ。『塔』と名はつくものの、高さ1メートルにも満たない小さな石塔。  
『ひめゆりの塔』は、沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして、現在でも参拝する人が絶えない。

*「ひめゆりの塔」構内P1080992
*ガジュマルの巨木P1080994
*「ひめゆりの塔の記」石碑P1080993
*「ひめゆりの塔の記」の概略
昭和20年3月24日、米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校職員生徒 297名は、軍命によって看護要員として、陸軍病院の勤務についた。戦闘がはげしくなるにつれて、前線から運ばれる負傷兵の数は激増した。病院の壕はたちまち超満員となり、看護婦、生徒たちは、夜昼となく負傷兵の看護をつづけた。
日本軍の首里撤退がせまった5月26日の夜、重傷患者は壕に残し歩ける患者だけをつれて、摩文仁村に移動した。病院は本部・第一・第二・第三外科に分かれて業務をつづけ、第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。
6月18日、いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌19日、第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げ込まれ、奇跡的に生き残った5名をのぞき職員生徒40名は岩に枕を並べた。  
その他の壕にいた職員生徒たちは壕脱出後沖縄最南端の断崖に追い詰められて多く消息をたった。陸軍病院に勤務した看護要員生徒の3分の2が、こうして最期をとげた。
戦争がすんで、二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕がさがしあてられた。昭和21年4月に最初のひめゆりの塔が建ち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員16名、生徒208名の戦没者を合祀し、平和の原点とした。
        『いわまくらかたくもあらむやすらかに
            ねむれとぞいのるまなびのともは』

*歌碑「いわまくらの歌」P1090002
*ひめゆりの塔と慰霊碑P1080999
*野戦病院とされた地下壕入口P1080997
*ひめゆりの塔祈念資料館前の棚に咲く花(花名は不明)P1090006
『ひめゆり』は、学徒隊員の母校である、沖縄県立第一高等女学校の校誌名『乙姫』と沖縄師範学校女子部の校誌名『白百合』とを組み合わせ『姫百合』と名付けたが、ひらがなで「ひめゆり」との名称とした。したがって、植物のヒメユリとは関係がない。

2018年1月14日 (日)

NO451、沖縄の世界遺産・首里城跡の見廻り

平成30年、新年年初に沖縄観光旅行(4日~6日)に出かけ首里城公園の世界文化遺産とされる建造物等を見廻りした。パソコンの不具合などで掲載が遅れてしまったが、記憶を消却することが忍びなく、コメントはボチボチにして写真だけでもと足跡として記載する。

首里城は、1429年から1879年まで琉球王国の国王の居城。王城は、琉球の政治、外交、文化の中心として栄え続けた。城壁は琉球石灰岩で築かれその総延長は約1,080m、城壁の高さ6~15m、その厚さはおよそ3m。歓会門が大手門(正門)で西側城壁にある。
城内には正殿・北殿・南殿などが御庭を囲む。正殿は1925年に国指定史跡とされたが、これらの建物群は、沖縄戦ですべて焼失した。

1406年に尚巴志が琉球王国支配のための居城として以来、1879年、最後の国王・尚奉が明治政府に明け渡すまで、約500年にわたって政治・外交・文化の中心として栄華を誇った。
1945年の沖縄戦で灰燼に帰した首里城は、1992年、沖縄の本土復帰20周年を記念して復元された。鮮やかな朱色の姿は、王国の歴史・文化の息吹を伝え、沖縄のシンボルそのものといえる。

*守礼門
守礼とは礼節を守るという意味。尚清王時代(1527~1555)に創建。扁額の「守禮の邦」とは「琉球は礼節を重んずる国である」という意味。

P1090011
*園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
歓会門の手前にある世界遺産。P1090015
*歓会門(かんかいもん)
首里城の正門。中国皇帝の使者(冊封使)など、訪れる人への歓迎の意を込めた名前である。
「あまへ御門」ともいう。「あまへ」は沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」を意味し「歓会」はその漢訳である。

1500年前後創建。沖縄戦(1945年)で焼失し、1974(昭和49)年に復元された。P1090018
*瑞泉門P1090020
*龍樋(りゅうひ)
瑞泉門手前にある湧き水。国王一族の大切な飲料水。P1090024
*城壁と遠江
首里城の地下に日本軍の本部が置かれていた為、沖縄戦では海上からの艦砲射撃と上陸部隊の猛攻で灰燼に帰した。P1090029
*漏刻門(ろうこくもん)
櫓の中の水時計で時刻を計ったことで名付けられた門。P1090025
*広福門(こうふくもん)
東側には戸籍管理の大与座(おおよざ)西側には寺・神社管理の寺社座(じしゃざ)がある。P1090030
*首里森御嶽(すいむいうたき)
城内にある礼拝所。神話には「神が作られた聖地である」と記されているそうな。P1090036_2
*奉神門(ほうしんもん)
「御庭」(うなー)へ続く門。3つの入り口があり、中央の門は国王や身分の高い人だけが通れる門。この門を通ると正殿。P1090035
*正殿P1090043_2
*御差床(うさすか)
2階の御差床は国王の玉座としてさまざまな儀礼や祝宴などが行われたところ。壇の形式は寺院の須弥壇に似ており、側面の羽目板に葡萄と栗鼠(りす)の模様が彫刻されている。
部屋の上部には、かつて中国皇帝から贈られた御書(ぎょしょ)の扁額がいくつも掲げられ、「中山世土」(ちゅうざんせいど)の扁額はその一つである。P1090047

首里城は中国と日本の築城文化を融合した独特の建築様式や石組み技術が見られ、高い文化的・歴史的価値があるとされ、世界文化遺産に登録された。
*史跡首里城祉の石碑P1090052

2018年1月13日 (土)

NO450、江戸の情緒を体感する佐倉七福神の見廻り

平成30年1月10日(水曜)、寒風が時折吹きすさび肌もピリピリする寒さではあるが、冬の好天日に恵まれたこの日、関八州流れ者軍団と洒落込み、江戸の情緒を鼻水を啜りながら体感しつつ、本年の七福を招き七難を逃れんと佐倉市中を七福神の見廻りをした。

実の処、年末から年初にかけてわがPCの不具合が発生し身動きが付かず、マイクロソフトのプロダクトキー番号入力せよとの指令を遂行できず(どこに収納したのか記憶無し)ほとほと困り果てていたところである。人間の脳細胞は記憶を呼び起こそうと悩みつつ考え抜くと突然に記憶を思い出すものである。2週間ほど悩んだが昨日ピカリと仕舞い込んだ場所を思い出したので、今はブログにしがみついている敬天愛人sa-sanである。

当日の行程:
*武家屋敷→1大聖院→*佐倉城跡→2麻賀多神社→*お囃子館→3嶺南寺→4甚大寺→5宗圓寺→6妙隆寺→7松林寺→*旧堀田邸庭園

*佐倉武家屋敷・・・佐倉に残る江戸時代の3棟の武家屋敷が公開されている。当時の武士の暮しを窺うことができる。この辺りにはボランティアの案内人が少々うるさくつきまとってくる。P1080895
1、大聖院
大和田山大聖院明王寺、鎌倉時代の初期に開山され、真言宗豊山派の寺院。本尊の大日如来は佐倉市指定有形文化財に指定。
佐倉七福神のうち大黒天(財宝、武徳、除災招福の神)と布袋尊(笑門来福、夫婦円満、子授けの神)を所蔵。P1080899
*佐倉城跡・・・水掘、土塁、本丸、天守台など城の面影が残っている。2006年「日本百名城」に選定された。ここにはボランティアの案内人がうるさく案内を押売りしてくるので、辟易することもある。P1090110_2
*佐倉城天守台跡地P1090113
2、麻賀多神社
旧佐倉藩の総鎮守で、古くから「まかたさま」と親しまれ、崇敬されてきた神社。印旛沼の東側から南にかけての地域にのみ存在する神社である。
佐倉七福神の疱瘡神社恵比寿尊(商売繁盛の神)と三峰神社福禄寿(長寿、幸福の神)を所蔵。
樹齢800年以上の大銀杏をはじめ古木・大樹に囲まれている。御祭神は「和久産巣日神」「稚産霊命」、伊勢の神宮外宮の御祭神「豊受姫命」の御親神。人・万物・事業の生成・発展を見守る神様で、 恋愛・安産・子育・健康・事業の御神徳をいただける神様である。P1090114
*佐倉おはやし館・・・郷土の文化、伝統行事、物産紹介など情報の提供が受けられる憩いの場所である。神田囃子のルーツは佐倉囃子だそうな。P1080919
3、嶺南寺
清浄山嶺南寺、曹洞宗であり寛永19年(1642)に松本藩主堀田正盛の佐倉移封と共に松本より佐倉に移り建立された。本尊は「釈迦牟尼佛」で開山は陽南良雪大和尚。本堂内には閻魔大王を安置している。
佐倉七福神の弁財天(唯一の女神、知恵財宝・愛嬌縁結の神)を祀る。弁財天は本堂内に安置されており、1月1日?10日のみ御開扉している。P1090116
4、甚大寺
安城山甚大寺、天台宗比叡山延暦寺の末寺として1615年に建立された。堀田家の菩提寺であり本尊は十一面観音菩薩。その他金比羅尊、不動明王、毘沙門天、仁王尊が奉られ、毎月10日は招福祈願して金毘羅縁日が開催され賑わう。また、境内には健康を願ってお身ぬぐい観音が奉られている。
佐倉七福神のうち、堀田毘沙門天(仏教四天王の一人、招福利財の神)を祀る。P1090117
5、宗圓寺
正覚山宗圓寺、臨済宗妙心寺派のお寺で、本尊は観世音菩薩。寛永16年に松本藩主堀田正盛が松本に建立した円覚山恵光院の境内に、19歳で卒去した弟堀田佐兵ヱ安利の冥福を祈り建立、寛永19年(1642)に佐倉の現地に移された。墓地には佐倉蘭学の興隆を図った順天堂創立者佐藤泰然の墓等がある。
佐倉七福神のうち、寿老人(大地を掌握する神様。財宝、福徳円満の神)を祀る。P1080923
6、妙隆寺
久栄山妙隆寺、山梨県身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗のお寺。本土寺(松戸市・あじさい寺)第9世日意上人によって、文明3年(1471)に開創された。本堂は鎌倉様式。境内の墓所には、日本で初めて種痘をしたとされる医師、鏑木尚安・仙安ほか先人が多く眠っている。
佐倉七福神のうち、大黒天(大地を掌握する神様。五穀豊穣、福徳円満の神)を祀る。P1080933
7、松林寺
玉寶山松林寺、浄土宗寺院、初代佐倉藩主土井利勝が土井家の菩提寺として、慶長15年(1610)に建立した。佐倉城の築城と同時期に建立された現本堂は、土井利勝が春日局より譲り受けた「聖観音像」を安置する為に建てた観音堂で千葉県の有形文化財指定。境内には、土井利勝の両親と妻の墓がある。毘沙門像は、徳川家康の五男武田信吉を祀った後に、松林寺に奉納されたと伝えられてる。
佐倉七福神の一つ土井毘沙門天(仏教四天王の一人。融通招福の神)を祀る。P1080935_2
*旧堀田邸、さくら庭園・・・建物7棟は、旧堀田家住宅として国の重要文化財に指定されている。明治時代の上級和風邸宅として庭園とともに残る貴重な建造物である。P1080941



2017年12月 3日 (日)

NO449、柏市北部地区の巨樹巨木の見廻り

12月1日(金曜)、柏市の北部地区の歴史ある古刹寺院や鎮守の森を織りなす神社の巨樹の見廻りをした。この地区は坂東太郎利根川の恵みを得た肥沃な土壌であり、古代から多くの人々が居住した地域で歴史が深い。従って巨樹巨木は、霊木や御神木として残され、この地区の人々の日常生活と長年にわたり関わりを持ち、物言わずして人々を眺めてきたものと想像される。

この日の行程:我孫子駅⇒北柏駅前バス停⇒花野井神社前→大洞院→花野井香取神社→長泉寺→旧吉田家住宅→善照寺→布施香取神社→布施弁天(東海寺)→久寺家→つくし野→我孫子駅

行動時間:6時間、 歩行距離:約9㎞、歩行数:約20,000歩

*大洞院
大洞院のある花野井周辺は、旧石器時代から縄文・弥生などの多くの遺跡があり、奈良・平安時代の「寺」と記された墨書土器が発
見されている。大洞院からは、鎌倉・室町時代の武蔵型板碑も多数出土している。大洞院はもと天台宗寺院であったが、慶長元年(1596)曹洞宗として鷹山舜岳大和尚が開山したとされている。本尊は阿弥陀三尊。
大洞院境内にあるイチョウの大木は、樹齢450年以上である。<イチョウ:幹回り5.32m>P1080825
*花野井香取神社
今から500年以上前の文明年間(1469~87室町中期頃)に造られた鬱蒼とした茂みの中の鎮守である。P1080844祭神は経津主神を祀り、近郷
の信仰を集めてきた。算術の難問を絵馬にして奉納した明治7年銘の「算額」が伝わる。
<スダジイ4本、ムクノキ、クスノキ2本、イチョウ>P1080847
*長泉寺
ぼけ封じ関東三十三観音霊場として知られる真言宗豊山派の寺院で大悲山長泉寺と云う。宝暦11年(1761)に流山東福寺の末寺とし
て開山し、1800年代中期に庫裏・本堂改修、後期には仮説学校として利用された歴史ある寺院である。<ケヤキ2本、イチョウ2本>P1080849
*布施香取神社
本殿は新しく被いが建設されている。神社の側面の彫り物は、東都彫師の石川三之助信光作。<スダジイ2本、ムクノキ2本>P1080872
*善照寺
普龍山善照寺は真教が創建した古刹で柏市唯一の時宗寺院。相模国鎌倉藤沢の総本山清浄光寺の末寺。本尊は善光寺如来。
銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像(三尊像)は柏市指定文化財で、銅造、鍍金及び漆箔製。 <スダジイ>P1080878
*東海寺(布施弁天)
東海寺は、真言宗豊山派の寺院。紅龍山布施弁天東海寺と称し本尊は弁才天(秘仏)。P1080854寛永寺弁天堂(不忍池)、江ノ島神社とともに関東三弁天のひとつ。大同2年(807)空海が嵯峨天皇の勅願により創建したという。
平将門の乱の際、本尊弁財天を松の木の上に避難し難を逃れた事から、松光院とも称される。平成18年には本堂・楼門・鐘楼が千葉県重要文化財の指定を受けた。
<カヤノキ2本、ケヤキ3本、スダジイ3本、ムクノキ2本、イロハモミジ>
<毎年、コノ
ハヅクが子育て時期に森に生息する>P1080865
*柏ビレッジ水辺公園(大室城跡)P1080822



2017年11月18日 (土)

NO448、千葉市花見川区検見川の巨樹見廻り

晩秋ではあるが、寒波の到来で本年においては最も寒いと予報された11月17日(金)、樹木観察会メンバーで検見川地区の巨樹の見廻りを実施した。今年初めてのダウンブルゾンを着込んだが、快晴の無風の見廻りで汗ばむほどであった。

広徳院
本寺院は検見川の西北側にあり、覺王山中臺寺と号し宝亀五年(775)の建立で、真言宗。
*広徳院のイチョウ
P1080683*広徳院のケヤキP1080684
検見川神社
検見川神社誌によると、貞観11年(869)、全国に流行した疫病を治めるために、嵯峨の地に素盞嗚尊を祀ったのが始まりとされている。その後承平4年(934)に社殿が建立され、さらに文禄年間に現在地に遷されたという。祭神は、素盞嗚尊、宇迦之御魂神、伊弉冉尊の三神を祀る。
*検見川神社参道のケヤキP1080685*タブノキには梟の彫物P1080441
東大検見川総合運動場
この辺り落合遺跡といわれ、昭和22年の発掘調査では3隻の丸木舟と9本の櫂が発見され、弥生時代の舟だまりのあったところと推測されている。植物学者の大賀一郎博士は、昭和26年に市民と発掘調査し、女子中学生が1粒のハスの実を発掘、翌年花を咲かせた。調査の結果、2000年前のハスの実と分かり大賀ハスと名付けられた。
*大賀ハス発掘の沼地跡P1080689
子安神社
神社の由緒書によると、延暦年間(782~806)この地を支配した豪族の古墳を御神体とし、五穀豊穣の神として創立した。のち奇稲田姫命を勧請して安産の守護神として祀ったとある。
(巨樹=タブノキ3本、スダジイ2本、ムクノキ2本、ケヤキ本、カヤノキ1本、その他多数)
*子安神社のタブノキP1080442*子安神社のスダジイと鎮守の森P1080446
真蔵院
真言宗豊山派。大同元年(806)の開基と伝えられ、元禄年間(1688~)に観海上人により中興開山したといわれている。本尊は、千葉氏一族・武石三郎胤盛が母の菩提を弔い祀った地蔵菩薩。境内にある板碑は、高さ3.31mの武蔵型板碑で永仁2年(1294)と刻まれ、千葉市の文化財指定。胤盛の守り本尊を祀る浪切不動堂は近在の船頭衆の信仰を集めたそうな。 
(巨樹=タブノキ・スダジイ・イチョウ・シロダモ等)
*真蔵院と背後の鎮守の森P1080447*真蔵院の手入れされたイチョウP1080693
三代王神社
神社の創建年代等については不詳であるが、祭神は天種子命。千葉氏一族・武石胤盛が帰依したという。下総三山の七年祭りでは、三代王神社が産婆役で参加する神社。
(巨樹=タブノキ2・スダジイ3・ケヤキ・モチノキ)
*三代王神社のスダジイP1080455*三代王神社のケヤキと鎮守の森P1080454*三代王神社のモチノキP1080459
JR幕張駅側の手打蕎麦屋「野の茶」で鴨汁せいろとお燗の純米地酒Dsc_0002_3

2017年11月11日 (土)

NO447、松尾芭蕉が奥の細道の旅に出立した千住宿の見廻り

11月10日(金)木枯らしが既に吹いたようだが、晩秋の暖かさに浮かれ、松尾芭蕉が奥の細道の旅へと出立したと云われる千住の街並みを見廻りした。
江戸時代の千住は所謂4宿の一つで、5街道の内、日光街道・奥州街道共通での江戸から最初に旅人が使う宿場町だった。品
川宿・内藤新宿・板橋宿より宿屋や商家が多い街として賑わい、粋な旦那衆が花街で遊んだり芸術家を支援したまちであった。それにいまだに銭湯が8軒もあり、赤提灯の飲み屋街が幾筋もあり夕刻には「呑み横」や「毎日通り呑み街」などには酔っ払いが溢れてるそうな!

*南千住駅前の松尾芭蕉像
彫刻家平野千里氏によって製作され、平成27年3月に、奥の細道矢立初めの地千住を象徴する像として建立された。
 矢立初
めの句「行春や鳥啼き魚の目は泪」P1080564
*素戔雄神社
荒川区で最も広い氏子域を持つ鎮守。P1080573*文政3年(1820)千住宿の文人らによって建てられた芭蕉の矢立初めの句を刻んだ句碑がある。P1080578
*荒川ふるさと文化館前の橋本佐内の墓「旧莢堂」P1080583
*日枝神社・山王清兵衛
清兵衛は千住の歯神として祀られている。歯痛に耐え切れずこの地で切腹した武士である。P1080585
*熊野神社
創建は永承5年(1050)。源義家が奥州攻めに向かい渡河を熊野大社に祈願し勧請したとつたわる。
大橋を架ける時には、都度橋の残材で社殿の修理を行なった。これが慣例となり大橋の架け替え毎に社殿修理が行われたそ
うな。P1080589
*千住大橋
文禄3年(1594)徳川家康が江戸入府した後、隅田川に初めて架けた橋。架橋工事は困難を極めたが熊野神社に祈願したと
ころ完成した。大橋の架け替え毎に熊野神社社殿修理が行われた。
旅を愛した松尾芭蕉も大川を船で上り、千住で下船し、ここから旅立った。
最後の将軍徳川慶喜の水戸への旅立ちの地となった(真山青果「将軍江戸を去る」)。
現在の鋼橋は昭和2年(1927)、増田淳の設計により架け替えられた。ブレースドリブダイドアーチ橋の最古の例であるそうな。P1080593
*大橋公園の奥の細道矢立初めの地P1080601
*足立市場・芭蕉像
足立市場の側に筆を持つ芭蕉の石像がある。
足立市場は都内唯一の水産物専門の市場で、通称「千住の魚河岸」と呼ばれている。また日本に一つしかない長ねぎ専門の卸売市場でもあ
り、此処で選び抜かれた葱を「千寿ねぎ」と呼び、この葱を使った食べ物が「千寿ねぎま鍋」で、江戸時代からの千住名物である。(千住ねぎではなく千寿ねぎである)P1080602
*千住宿歴史プチテラスの芭蕉句碑
   「鮎の子のしら魚送る別れ哉」P1080608
*千住3丁目の大橋眼科建物(時代を感じさせるドイツ風の建物)P1080610
*千住宿本陣跡・見番横丁の説明板(千住3丁目)
現在は何も残っていないが、説明板だけがある。見番とは所属する芸者の客席への取次や料金精算を行う事務所である。P1080613
*絵馬屋・吉田家(当代で8代目、絵馬や地口絵、凧絵などの手書き絵馬屋)P1080626
*横山家住宅(旧地漉紙問屋、家屋は江戸時代後期の建築で商家の面影が残る)P1080624
*千住本氷川神社旧社殿(旧社殿向拝は、千鳥破風・唐破風の二重破風を形成し、貫や梁には龍や鳥類の彫刻がされているP1080616
☆千住の由来
千住の由来は、荒川から引き揚げられた千手観音さまに因むという説や、戦国の領主であった千葉氏が住んだことにちなむ
など諸説があり、定かではない。

2017年11月 5日 (日)

NO446、平将門怨霊の七つ星地点の見廻り

都心の紅葉がボチボチと始まってきた暖かな秋日の11月4日(土)、トランプ米大統領の長女イヴァンカ補佐官の来日中で、警護のやかましい都内ではあるが、将門怨霊の地と云われる処を見廻りした。パワースポットとも騒がれてゐるそうであるが、勝手な理屈付けの地点もありその真偽のほどは全く定かではない。こじ付けであろうと覚えるが、この将門怨霊の地点を結ぶと北斗七星が描かれるなどと勝手な歴史解説もあり、見廻りするには価値ありと出掛けた次第である。なお、将門怨霊物語は日本3大怨霊物語(菅原道真、崇徳天皇)のひとつ。

*鳥越神社P1080525平将門の首が京都から郷里の我孫子郷日秀地区へ向かう際、上空を飛び越えたという言い伝えがある神社。
平安時代、奥州討伐に向かった源頼義・義家親子が、白鳥が飛び越えるのを見て浅瀬を知り、無事に大川(隅田川)を渡れ
たことから鳥越大明神の名になったと伝えられている。千貫神輿は有名である。P1080527
*兜神社P1080532_2将門を討った藤原秀郷(俵藤太)が将門の首を京都に運ぶ際、その兜を塚に埋めて供養した場所が「兜石」で、明治時代に証券取引業界の守護神として神社が創設されたそうな。P1080534*兜神社の兜石P1080536
*将門の首塚P1080537京都の都大路に晒された将門の首が、3日目に突如夜空に舞い上がり、故郷の下総に向かって飛び去ったという伝説がある。その途中でここ大手町に落ちたと云われる。昭和元年に大蔵省が塚を埋立てたところ大臣をはじめ担当役人が次々と怪死したことから将門塚破壊の祟りだとされた。またGHQが区画整備しようとしたが墓石の前でブルが横転し運転手が死亡した事故が起きた。その後はこの地には手が付けられておらず塚は鄭重に保存されている。P1080543
*筑土八幡神社P1080544京都にさらされた将門の首は首桶に納められたが、その首桶を津久戸明神社にご神体として祀ったとされる。その後何度か移転を繰返し現在地に移ったとされている。P1080547
*神田明神P1080550正しくは神田神社といい、天平2年(730)現在の将門塚近辺に創建したのが起源である。その後続発した天変地変が将門の祟りによるものと畏怖されたため、将門の供養をして神田明神に奉祀した。神田明神の主要祭神の一柱は平将門である。江戸城の鬼門を鎮護する神社としても有名である。P1080552
以下の2ポイントは、今回は省略
*稲荷鬼王神社:歌舞伎町2丁目(将門の幼名が鬼王丸と云った)
*鎧神社:北新宿3丁目(将門の鎧を埋めたとの言伝え)

2017年11月 3日 (金)

NO445、印西市、栄福寺薬師堂と松虫寺の見廻り

文化の日の11月3日、千葉県下で最古の木造建築物である印西市の国重要文化財「栄福寺薬師堂」と同じく重文「木造七仏薬師如来像」のある松虫寺の見廻りをした。

☆栄福寺薬師堂
栄福寺は正式名は角竜山医王院栄福寺、天台宗で行基による開基と伝えられているが、その沿革は明らかではない。境内は神仏混合の名残りが現在まで残り熊野神社が祀られている。今年「薬師堂内」の厨子の中に安置されている秘仏のご本尊が33年ぶりに御開扉され、特別に11月12日には拝むことができるそうな。P1080473
*国指定重要文化財の「栄福寺薬師堂」P1080486「栄福寺薬師堂」は、正面、側面ともに3間の真四角な単層の堂である。その屋根は、茅葺寄棟造(かやぶきよせむねづくり)。「寛正7年(1466)6月柱立 応仁3年(1469年)霜月上棟、文明4年(1472年)2月成就」との棟札の墨書銘があり、室町時代中期の建物である。P1080480
*鮮やかな朱塗りの薬師堂軒下に地域の人々の信仰心の深さP1080484
*梵鐘の無い鐘楼。その理由は不明。P1080475
*寺の境内に「熊野神社」が共存。P1080476
*熊野神社の前には榧の巨木P1080479
*ビンズル大師は、左甚五郎の作と伝わるが???P1080483
*祭礼の幟旗が立てられ、33年ぶりに御本尊薬師如来の御開扉P108049033
☆松虫寺
松虫寺は正式名を摩尼珠山医王院松虫寺、真言宗の寺。創建は奈良時代の天平15年(743)、聖武天皇が僧行基に命じて創建されたと伝えられている。聖武天皇の皇女松虫姫(不破内親王)が重い病を患われ、夢のお告げにより下総に下向し薬師仏に祈り重患平癒した。喜ばれた天皇が行基に命じて七仏薬師を謹刻すると共に一寺を建立し、松虫寺と名付けられたそうな。P1080495
*寺の入口に聳え立つスダジイの巨木P1080498
*仁王門、享保3年(1718)の建造P10805003
*松虫寺本堂は慶応元年(1865)の建造、本堂内には阿弥陀如来、不動明王、松虫姫尊像をお祀りする。P108051012
*松虫姫神社P1080518
*鐘楼P1080521
*七仏薬師瑠璃光如来(国重文)「木造薬師如来座像1体、立像6体」
七仏薬師は全国的にみても珍しく、この松虫寺と滋賀県の鶏足寺だけである。カヤ材の一木造で、像高は中尊坐像が54.3㎝、立像はいずれも38㎝の小像群で平安時代末期に造像された。この仏像は、33年に一度御開帳を迎える秘仏。直近の御開帳は2012年、次回は2045年。17103118510659f8478ac2b36_l1
*姥塚
姫と共に下総に下向した乳母杉自は、村人を集め文字の読み書きや養蚕を伝え(関東の養蚕の祖といわれる)、この地に残ったそうな。Ubazuka1


2017年11月 2日 (木)

NO444、南紀白浜・田辺、南方熊楠記念館・南方熊楠顕彰館の見廻り②

前回のNO443に引続き、27日から29日まで紀伊白浜・田辺の地をうろつき「智の巨人・熊楠」の気配に触れる見廻りをした。

第2弾の写真と簡単なコメントである。

☆世界遺産となった田辺市の闘鶏神社
創建は允恭天皇(いんぎょうてんのう)8年(419)、熊野権現を分霊、勧進。正式名は新熊野権現社という。源平合戦の折
、源氏と平氏の双方より熊野水軍の援軍を要請され、どちらに味方するかの神意を確認するため、神社本殿の前で赤を平氏、白を源氏に見立てた紅白7羽の鶏を闘わせたと云う鶏合わせの神事が伝えられている。
御祭神は天照皇大神・伊邪那美命・伊邪那岐命ほか。

*闘鶏神社本殿Dsc_0039*御神木の大楠(樹齢約1200年) 横・縦Dsc_0029Dsc_0032_2*弁慶と熊野水軍湛増の像(湛増は弁慶の父と云われている)Dsc_0036*闘鶏神社の児童公園にある大楠(樹齢約800年)Dsc_0042
☆*日本第一知恵の神、蟻通神社(蟻を使って法螺貝に糸を通した知恵の神の由来)Dsc_0049*蟻通神社の霊樟Dsc_0052
☆*弁慶所縁の八坂神社00450001*弁慶の腰掛岩00480001
☆*田辺NTTビルの熊楠像壁画(こんな所にも熊楠信仰?)00430001ntt_2
☆南方熊楠顕彰館(室内資料の写真撮影禁止)Dsc_0044*南方熊楠邸Dsc_0045*南方曼荼羅00390001_2



2017年11月 1日 (水)

NO443、南紀白浜・田辺、南方熊楠記念館・南方熊楠顕彰館の見廻り①

本年は特別に台風が多い訳ではないが、何故かsa-sanが出かけようと計画したその日前後に、台風による悪天候に見舞われて中止や延期になる事が多く、精神的にも肉体的にもストレスが積もり重なっている。
本年最後の大型台風22号が先週27日辺りから列島の天気予報で姦しく騒がれ、中止すべきか迷ったが、手配したチケットを解約するのも面倒で27日から出立し、2泊して29日まで紀伊白浜・田辺の地をうろつき「智の巨人・熊楠」の気配に触れる見廻りをした。

2泊しての台風の最中の見廻りとは言え、備忘記録は多く、時間経過とともに忘れ去る事項は更に多く、スマホでの写真記録を解説なしでボチボチと何回かに分け掲載したい。

*白浜、南方熊楠記念館入口00310001
*白浜、入口に立つ昭和天皇御製の石碑
 「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」Dsc_0024
*記念館入口風景(館内は展示資料など撮影禁止)00340001
*熊楠の肖像画Dsc_0026
*若き日の熊楠の肖像写真00350001


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